プレリュード➃

第4回――イントラ・フェストゥムとコムニタス―その1――


⚫ドストエフスキーのアウラとエクスタシー――

木村敏(『時間と自己』)より―― 
「『カラマーゾフの兄弟』(筆者注:ドストエフスキー著)のアリョーシャは、ゾシマ長老の死という衝撃的な体験に引き続いて突然エクスタシーの体験に襲われる。彼は「自分でも知らない」うちに大地に身を投じて、泣きながら大地に接吻し、大地を涙でうるおす。

 

いったい彼は何を泣いているのだろう?おお、彼は無限の中より輝くこれらの星を見てさえ、歓喜のあまり泣きそうになった。そうして『自分の興奮を恥じようともしなかった』。ちょうどこれら無数の神の世界から投げられた糸が、いっせいに彼の魂ヘ集まった思いであり、その魂は『他界との接触』に震えているのであった。彼はいっさいにたいしてすべての人をゆるし、それと同時に、自分のほうからもゆるしをこいたくなった。おお!それは決して自分のためでなく、いっさいにたいし、すべての人のためにゆるしをこうのである。『自分の代わりには、またほかの人がゆるしをこうてくれるであろう。』という声が、ふたたび彼の心に響いた。

 

 精神医学者で哲学者の木村敏によると、大多数の癲癇患者が大発作のとき記憶を失い、その間のことを日常に持ち帰ることができないのだが、一部の患者は、意識の完全な消失の前に数秒間のアウラ体験を持ち、その記憶を日常に持ち帰ることができるのだという。
 ドストエフスキーは、その数少ないアウラ体験の記憶を有する癲癇者であり、彼の作品の中には、彼自身の発作直前の生々しいアウラ体験が克明に再現されており、またそのアウラ体験の色調が彼の作品全体を支配しており、そのことが彼を歴史上最も偉大な作家の一人にしている。
 それは、癲癇発作を体験することのない多くの読者の心の中にも、彼のアウラに共感するような心情が隠されているということを示唆している。
 アウラの内容は、幻覚や錯覚、離人症様の現実疎隔感、不安・恐怖・エクスタシーなどといった強い感情である。

 アリョーシャのこの、身近な人の死の衝撃によって引き起こされたエクスタシーは、ドストエフスキー自身のアウラ体験を下敷にして紡ぎ出された“思想・心情”を土台として描き出されている。
 そして人は、人の死を身近に体験したとき、アリョーシャのように、癲癇発作の時のアウラと似たエクスタシーを体験することがある。肉親の葬儀が躁病を誘発することが多いのも、それと関連している。それは同時に、癲癇発作も死と関係深いことを示唆している。

 また、セックスのオルガスムでは「いく!」(逝く?)とか「死ぬ!」と叫ばれることが多いが、オルガスム自体が「小さな死」とも呼ばれることがあるそうなので、それもこうしたエクスタシーと関係していよう。

 死は、個別的生命の日常性が甘受せざるを得ない有限性の定めからの徹底的な離脱である。身近な他人の死は、この離脱の解放感の幾ばくかを、有限な生に分け与えてくれる。
 癲癇のアウラ体験は、死と同等の聖なる発作と生の日常性が重なる境界上で、死の永遠と生の日常の現在が重なる、「永遠の現在」が稲妻のように顕現する数秒間である。

 癲癇は古代ギリシャでは、「聖なる病」(モルブス・サケル)と呼ばれて、古来より人々の畏怖の対象となって来た。「サケル」には、「神聖な」という意味と、「悪魔的な、呪われた」という両義的な意味があり、人々はその両義的な心情において、癲癇の発作を畏怖したのであろう。

 木村敏は、この癲癇の病理を「イントラ・フェストゥム(祭りのさなか)」=「祝祭の病理」と名付けた。発作時の最中の意識の解体は日常に持ち帰ることはできないので、ドストエフスキーのようなその直前のアウラ体験から、それが死と同等の体験であることを推測するしかない。
 

⚫第三の「狂気」――

 ちなみに木村は、分裂病者(統合失調症)の未知なる未来への親近性を、「祭りの前」を意味する「アンテ・フェストゥム」の概念で捉えている。分裂病者は、現在という時間にゆったりと逗留することができず、いつも遅れをとっていると感じながら、未来を先取りして現在よりも一歩先に生きようとする。

 分裂病というと、妄想などの症状にばかりとらわれがちになるが、根底にはこのような時間意識があるというのである。分裂病者の幻覚妄想などの急性症状(「狂気」)はむしろ、このような未来先取り的な時間様態を脱し、主体がイントラ・フェストゥム的時間に復帰しようとする、自然が与えてくれた一つの健康回復作用だとさえ言える。

 一方鬱病者における既存の役割的秩序との親近性を、彼は「祭りの後」(後の祭り)を意味する「ポスト・フェストゥム」の概念で捉えている。役割同一性の下で、人の評判や義務遂行があまりにも気になり過ぎる人の時間意識は、済んだことをいつまでもくよくよ考える、過去中心のそれであり、やはり充分に「今を生きる」ことができない。

 鬱という症状も、そういった他者の目や過去への拘泥から生まれる危機的ストレスから脱するための、イントラ・フェストゥム的なアジール(駆け込み寺、縁切り寺=子宮)ヘの、緊急避難的な逃げ込みの方法なのである。日常的自我的「主体」の、秩序構造への過剰適応が生む病的ストレスから身を守るため、言語以前の自然的身体的主体が、社会的・自我的「主体」から自律して行おうとする、一つの健康回復作用なのである。

 筆者自身の性格はこのタイプに属し、しばしば自分の中のこの二つの主体間の葛藤の末、鬱の症状に落ち込んではその時々の人間関係から逃げることで、日常の秩序構造に律儀なままでは果たせなかった、人生上の幾度かの生命的危機からの脱出――何しろ自殺という選択肢も、この危機からの脱出の一方法としてあったのだから――を、病気を通して成功させてきたのである。
 ただし、そういうふうに開き直れるようになったのは最近のことで、それまで大切な人間関係を度々断ち切って逃げてきた罪悪感を持ち続けて生きてきたのである。

 だから、イントラ・フェストゥムは癲癇者や躁病者だけに特有な時間様態だというようなことは言えない。それは、アンテ・フェストゥムやポスト・フェストゥムとは次元の違う時間様態なのである。
 分裂病者と鬱病者の根底にある二つの時間意識の「狂気」に対し、このイントラ・フェストゥム(祭りのさなか)という第三の「狂気」は、現在の優位、永遠の現在の現前、といった時間意識として捉えることができる。

 未来や過去と同列に併置されうる、今一つの時間帯としての現在のごときものは、人間の言葉の文化によって抽象化されて獲得された「現在」の「現実」に過ぎない。
 獣など、自然の生命一般の現実的な時間様態は、永遠の現在である。自然と対蹠的な文化的存在である人間もまた一方で、生きとし生ける生命体の一部として、その存在の根源に、永遠の現在を秘めている。

 人間にとっての真なる現在も、未来と過去を自己自身の中から生み出す源泉として、未来や過去のベクトルの一部としてではなく、その根源にある時間としての現在なのだ。未来や過去を水平線のベクトルで表すとすると、真なる現在はそのベクトルの中には収まらず、全く異質な、垂直線のベクトルとして表されるような時間である。

 癲癇のアウラ体験のエクスタシーは、イントラ・フェストゥムという「狂気」の代表例ではあるが、それは癲癇という病に限定されるものではない。一般に「狂気」「非理性」と呼ばれているものは、実は人間存在に普遍的なこのイントラ・フェストゥム的契機のことを指している。
 だから、先述したように、癲癇に限らず、分裂病や鬱病の症状、躁病や非定型精神病、境界性パーソナル障害や神経症の症状などにも幅広く、イントラ・フェストゥム的契機が見いだせる。

 そして普段は健全な日常生活を営んでいる個人や集団が、時として招く「狂気」・非理性――愛の法悦、自然との合体感、美や神秘への沈潜から、酒や麻薬への耽溺、ギャンブルへの熱中、放火や窃盗や殺人に伴う快感に至るまで、それは我々の周囲のいたる所に見いだせるものでもある。

 ここまで書いて来れば、第1回から読んでいただいた多くの読者が、木村敏の言うイントラ・フェストゥムが――木村自身によるそれへの論及は一切ないものの――ターナーの言うコムニタスと、ほぼ同義の概念だということに、すでに気付かれていることだろう。

 第1回では、経済人類学的視点から、コムニタスの人間関係について、シェアリング、つまり、ただ惜しみなく分かち合う気前良さだけが関係を支配するようになる、ということを述べた。冒頭に引用した、アリョーシャの自他溶融の宗教的エクスタシーは、この経済的関係に即応しているだろう。

 そして木村はさらに、祝祭にはそういった輝かしい側面ばかりではないということも強調している。すなわち、祝祭は常に死の原理によって支配されている。死は、それ自体として見れば麗しい永久調和を意味するであろうが、個別的生命に執着する日常性の意識にとっては、恐怖の対象以外の何者でもない。

 革命や戦争は、死と隣り合わせているという意味でも、優れて祝祭的である。木村は、祝祭に犠牲は不可欠だとも述べている。
 第2回〜第3回で見てきた竹内芳郎の、コムニタス論的革命も、神聖性の強いものであればあるほど、魔性、すなわち、悲惨な死を結果する暴力にも彩られていた。

 しかし、第1回でも述べたように、犠牲=第三項排除暴力とコムニタス=イントラ・フェストゥムを関連付けて理論展開できる準備は、未だ筆者にはできていない。が、今までの経験で言うとモヤモヤの中でも問題意識を強く持ち続けていると、ある日突然、ヒラメキが下りて来て、モヤが晴れ、問題の核心に迫って行けるようになったので、この問題も本編で展開して行けるようになるだろうと予感できる。

 このように木村が“フェストゥム”(祝祭)という、ターナーで言うならコムニタスの視点で、表層的な症状や病気の枠組の違いを超えて、横断的に精神病−「狂気」を見渡すことができたのは、彼が、患者を生きた主体として診る現象学的人間学的精神医学者であったからであろう。

 次回、その現象学的精神医学が他の精神医学とどのように違うのかの木村の議論や、そして南島のユタの巫病や憑霊のエクスタシーとこのイントラ・フェストゥムとを関連付けた渡辺哲夫の議論について見て、プレリュードを終わることにしよう。

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