第1回――コムニタス概念を手がかりとして
⚫無秩序の導入――
日本の天岩戸神話は、クリスマスの原点と同じように、日食の恐怖に促された、太陽の死と再生にまつわる冬至(太陽が一番弱まる日)祭りの儀礼の説明だったと推定されるが、
スサノオは、天岩戸開帳のクライマックスの前段で、田んぼの畦道を破壊して用水路を埋めてしまい、アマテラス(オホヒルメ)の祭りの座具に糞尿を撒き散らし、日神を奉斎するための衣を縫っていた機織姫(ワカヒルメ)の神事の社殿に、
皮を逆剥ぎにしたアメノブチコマ――「斑」=ブチ模様は境界色であり、この模様の馬は古代エジプトのアピス牛と同じように、犠牲の聖痕(スティグマ)を背負った存在だと考えられていたのであろう――を投げ入れて屋根をぶち抜き、織姫を殺してしまった。
太陽の象徴たるアマテラスが岩戸に籠もるのは、このスサノオの行為のせいであるが、この乱暴狼藉の禁止が、現在の神社の「天津罪」という大祓の祝詞となっている。
この、ヤマタノオロチ退治へと続く一連の記紀の記述はおそらく、各地方の共同体で太古から行われて来た、農耕と結びついた冬至儀礼の所作を、それまでの国家形成期の主神であった大和地方の被征服民の神−三輪山の蛇神であったオホモノヌシ(オホクニタマ)――被征服民に司祭権が与えられるところに国家成立の秘密が隠されていると思われる――を押しのける形で形成された儀礼=神話であったのだろう。
古くは太陽神と蛇神は、両義的な一体の存在であったが、そこから野生の象徴である蛇を分離・排除し、光だけの一義性に純化された主神として、皇室の大陸的私神であるタカミムスビと共立する形で祀られたのがアマテラスであったと思われる。人間の文化はいわば分類学を基礎に成り立っており、それはAと非Aを二項対立させ、分離することから始まるのだが、その分離の整序には長い時間がかかっており、古くなるほどその分離が曖昧であり、両義的であった。光と闇、聖性と魔性の共存性は物事の分類の古さを示している。その古い両義性と、新しい二項対立の徹底が意味する哲学的・社会学的意味については本編で問い詰めよう。
このような記紀編纂作業は、大和朝廷がさらに外に侵攻して国家の版図を拡げていけるような、新たな国家形成段階に達したということも意味していたと思われる。しかしそういった政治的な歴史編集の問題は後で考えることにして、ここではさしてまだ重要ではない。
聖別された供犠の馬であるアメノブチコマとの関連で、機織姫(ワカヒルメ)の死とアマテラス(オホヒルメ)の岩戸隠れに、筆者は、「ペルセウス・アンドロメダ型」のヤマタノオロチの人身御供譚と近縁の、太陽の死を象徴する処女の巫女(ヒルメ)の人身御供を連想するし、スサノオの千座置戸(供犠の品々)を背負わされた根の国への追放劇にも、穢れ役の男の人身御供を、ついまた連想してしまう。が、しかし、生贄という第三項排除の問題は、これから主題的に論じようとしているコムニタスとおそらく深く関係していると思われるが、今はまだそこを論じる用意がないので、ここでは注目しない。
ここで注目したいのは、スサノオの乱暴狼藉の「無秩序の導入」という儀礼的な意味である。農耕社会で普段、最も罪深い行為として禁じられていたスサノオ役が演じるタブー侵犯行為は、その太陽の再生に至る祭儀のドラマには欠かせない要素として、秩序を再確認するための無秩序の導入として、むしろ祭儀の場を最高潮に盛り上げる無礼講だったのではないかと思われる。
また、太陽を復活させるためにと窟屋の前に集まった八百万の神々を沸かした、アメノウズメがふせた桶の上で踊る、ロックな、ストリップ・ジャンプ・タップ・ダンスは、新しい太陽の生殖を象徴するエロティックな呪術だったと考えられ、これも同じように、性的放縦という無秩序の導入だったと言えよう。
祭儀には欠かすことのできないこの無礼講的要素にこそ、筆者が追い求めるコムニタスの意義があることは、追々明らかになっていく。
中山太郎は、明治以前の各地の「暗闇祭り」などの神事で、共同体の乱交パーティーが行われていたと述べてている。乱交パーティーと言えば、万葉集の高橋虫麿は、共同体同士の境界地(入会山‐いりあいさん=アジール)の筑波山で行われる、夫婦交換(かがひ=嬥歌=歌垣)の様子を記している。今で言う「オージー(オルギア)パーティー」というやつだ。境界地ではそういった性的放縦が、見守る神(イザナギ・イザナミ)のもとで許され推奨されたのである。
オルギアと言えば、古代ギリシャのディオニュソスの祭りが有名である。ディオニュソス(ローマではバッコス)の秘儀では、女たちが夜毎集まりワインに酔い恍惚状態で、狂ったように踊り歌い、殺した山羊の血をすすり生肉をくらい、我が子さえ生贄に捧げたという。そういった乱交やオルギアもまた日常の秩序では禁じられた行為だったのであり、祝祭的時空でのみ許された無礼講であった。
人類史に、何故こういった「狂気」の放縦、「奇怪」な儀礼が行われたのだろうか?狂気と言えば、何故我々は精神病という「狂気」にとらわれるのであろうか?暴動や革命や戦争もある意味、「狂気」の瞬間だと言えよう。いや、人間の日常の「健常」性の文化の方が狂気だということが気付かれていないので、そこから正常化しようとする瞬間の方がかえって「狂気」に見えるだけなのかもしれない。
⚫コムニタスとは?――
人間のこうした存在論的秘密に迫るために、ターナーの「コムニタス」という概念にこだわり続け、それと通底していると思える様々な人々の議論を縦横に照合させあいながら問題意識を深めて行こうと言うのが、当ホームページの(最初の)狙いである。
本編では細部にこだわりながらじっくり議論を展開していくつもりであるが、その前奏として当初の全体の見通しを述べておくことにする。その見通しの第一回目として今回、まずはターナーのコムニタス論について、筆者の簡単な解釈を書き留めておくことにする。
「コムニタス」は、文化人類学者ヴィクター・ターナーの著書『儀礼の過程』(他)の中心テーマである。″共同の生活の場″という意味の「コミュニティ」と区別するために日常語ではないラテン語で表現されたこの概念を、筆者は一応日本語に「祝祭的共同性」と訳して始めようと思う。
その祝祭的共同性の内部では、これはターナーの説ではなく筆者の経済人類学的見解であるが、現代社会では定番の貨幣を介した交換経済は失効し、誰も私腹を肥やさないし、お中元やお歳暮のような他人行儀な硬苦しい交換的贈与関係もなく、シェアリング、つまり、ただ惜しみなく分かち合う、気前良さだけが関係を支配するようになる。
ターナーがコムニタスとして重きをおいた、アッシジのフランシスコの「清貧」は、こういった原始共産主義的経済原則に裏打ちされていると筆者は考えている。コムニタスには、先述した欲望放縦型と、フランシスコのような禁欲型の二つがあるのは何故か?ということも考えて行く必要がある。
ターナーのコムニタス論は、中央アフリカの未開の部族国家の下で暮らす、ンデンブ族の儀礼のフィールドワークを通して、その共通する特質を、他のアフリカの「未開」社会や、欧米はじめ世界中の国家社会を空間横断的・時間(歴史)縦断的に探し、様々な「祝祭的」な社会現象と関連付けて導き出された概念である。
ターナー自身の議論からまた逸れてしまうが、ターナーのようなアフリカ部族国家の社会の儀礼のフィールドワークは、国家研究という観点で見れば、国家の原初形態、それ故、国家形成の本質を知る上で大変興味深い材料を提供していると思う。
しかし、ターナーの関心はそういった政治人類学のテーマには向かわず、そこにおける儀礼の社会的意味、その意味の世界史的普遍性という、文化人類学的・社会学的関心に向かって行ったのである。
ターナーが描くアフリカの部族国家の、征服王朝と被征服土着民司祭が共同で執り行う儀礼には、日本の初期大和王朝の三輪山信仰はじめ、梅原猛が日本の伝統だとする御霊信仰(滅ぼした敵の霊の祟りを恐れて祀る信仰)にも――中国の蚩尤(しゆう)信仰もそうだが――通底する構造があり、そこに国家(形成)の秘密を読み取ることも可能だと思えるが、とりあえずはこの議論は保留にしたまま先に進んで行こう。いずれ、筆者自身の勉強が進み、この問題もコムニタスに深く関わる問題として、改めて正面から論ずることができる時が来るかもしれない。
このように、先程の「経済人類学的所見」もそうであるが、すぐ後で見る日本民俗学や、「プレリュード」の続きとして次回以降で見る予定の、革命論や現象学的精神医学、「祈り」や「呪い」のエクスタシーに関する比較宗教学的関心、あるいは祝祭的文学や各種芸術表現などへと、このコムニタス論はどこまでも広くリンクして行きそうなのでとても面白く感じられる。
色々リンクしながら一つのテーマに拘り続けるには、それなりの強い意志が必要であろうが、そういった自我の意志を超えて自動筆記的に何かに憑かれたようにより重要と思われる問題に話が逸れて行くのであれば、それこそ、それ自体がコムニタス的であり、それはそれでもっと面白くなって行くだろう。何しろ筆者は、目的意識性よりも、断然、自然発生性を重視する立場なので。
⚫リミナリティ(境界性)――
コムニタスは必ずリミナリティ(境界=移行状況)で現象するのだという。リミナリテイ=境界性こそが、時間と空間、人、全てに関わるコムニタスの性質である。しかし境界は、滑らかな絹生地にも微視すれば繊維の隙間があるように、あらゆる日常平面の隙間にも潜んでいる。
「境界」と言えば、日本でもそうであるが、おそらくは世界のどの文化でも、得体のしれないカオスな時空であるが故に、聖なる、あるいは魔なるものが湧出する時空として表象されている。コムニタスとは、こうした聖か魔のどちらかが、あるいはそのどちらとも言えないような、どちらでもあるようなものが現れる時空でもある。
日本民俗学の用語を使えば、リミナリテイ−コムニタスは、ハレ(晴)の時空のことでもあり、ハレは、ケ(褻)という日常の狭間にしか現象しない。例えば、成人式や結婚式のような、共同体が認定する人生上の通過儀礼、あるいは、農漁村の予祝(春)・収穫祭(秋)、夏(盆)・冬(正月)の年二回の祖霊祭などといった年中行事がこれにあたるわけだが、国家−文明成立以降は、流動化した時代の変わり目の社会や、特に近・現代のように複雑化しグローバル化した社会では、そうした既成の共同性の予定調和的に惰性化しやすい儀礼では吸収できない、聖(魔)なるエネルギーの表出として、むしろ例えば、原点回帰的な宗教運動や革命運動、反規範的な流行の生活スタイルといった、より祝祭性を帯びた社会現象の方に現れる。ターナーが実地調査した、未開の部族社会の「儀礼の過程」の特質が、形骸化した伝統的な祭りよりも、そうした突発的な社会現象の方に純粋に現れる。
⚫構造と反構造――
ターナーは、リミナリテイ−コムニタスを「反構造」と規定している。固定化された日常秩序の構造と対蹠的な現象が、その時空に露わになるからである。
反構造としてのコムニタスが生じるリミナリテイの属性は、構造の分類の網の目や秩序からはみ出しているために、曖昧さをその特徴としているとターナーは言うのだが、その曖昧さの中に特に、「両犠牲」という特徴も付け加えるべきだろう。
日常構造の中ではタブー(穢れ)として退けられていたカオスが、聖なる反構造としてのコムニタスの儀礼の中では解放されるのだから。そしてそれはしばしば、死や子宮、不可視なもの、暗黒、両性具有、荒野、そして日月の蝕などに喩えられると言う。冒頭に見た天岩戸神話にまつわるスサノオの乱暴は、まさにこの「日月の蝕」に関係する神話であった。
「未開」社会の通過儀礼では、参加者たちは、謙虚さと神聖性の中で儀礼の指導者に絶対服従し、境界上の存在として、構造上の地位や財産や職業の標識を示す衣服を脱ぎ捨て、簡素な裸同然の姿になり、平等と強い仲間意識の中に置かれる。
社会的に制度化された役柄から解放されて裸形に戻ることによって、「真に自己自身である」ことができるようになり、真の社会的共生を取り戻し、「各人は万人のために、万人は各人のために」という、まるでラグビーのスローガンのような共産主義の理想が現実化する。
そうした通過儀礼の反構造の一定の修練の時空を経て、参加者たちは日常の構造に、新たな地位を獲得して復帰していくのである。
ターナーによると、こういったアフリカ「未開」社会の儀礼のコムニタスの特質が、世界中で、あらゆる歴史の時代において広がっているのだという。
また、どの社会でも、構造はそれ自身を更新するために、構造の狭間に現出する反構造としてのコムニタスを必要としている。また、コムニタスの方も、構造のあるところにしか生まれない。構造とコムニタスは、対蹠的でありながら、同時に補完的であり、両者の時空は、陰陽の太極図のように、一種の弁証法的な関係として交替する。
ターナーがアフリカの「未開」社会以外で上げたコムニタスの例を以下に羅列してみると――
キリスト教の原点回帰的な、聖ベネヴィクトゥスの修道士たちや、フランシスコ派の清貧の思想とその実践。インド、ベンガル地方の「撤退及び引退」のコムニタスであるサハジーヤー運動。原点回帰的な宗教運動であり革命運動であった、各種千年王国運動。ヒッピーのコミューンのカウンターカルチャーや、フォークの神様ボブ・ディランなどの音楽活動。平素は低い身分にある者が、高い身分につき権力を行使できる身分逆転儀礼などと、多岐に渡る。そのそれぞれの中身は本編の方で見ていこう。
また、ターナーはコムニタスをおおまかに次の三つの型に整理している。
①実存的あるいは自然発生的コムニタス。②規範的コムニタス③イデオロギー的コムニタス。
この内、最も純粋な形のコムニタスは、①の「実存的〜」であるが、そのそれぞれの意味内容についてもここでは述べない。コムニタスは焦点の当て方次第でさらに、色々な型に分類することができよう。
また、こうしたコムニタス運動の中にいる人たち=コムニタスの主体となる人たちには有意な特徴があり、ターナーはそれを①境界状況にある者②構造的劣位者③アウトサイダーだとしているが、それについては次々回(プレリュード第3回)の、竹内芳郎(『文化の理論のために』)のコムニタス解釈を検討する中でいくらか考えてみようと思っている。
冒頭に、ターナーのコムニタス論を「それと通底していると思える様々な人々の議論と縦横に照合させあいながら問題意識を深めて行く」と書いたが、基本となるターナー−コムニタス論の理解に誤解があっては何もならない。筆者は現時点でまだターナー著作の読み込みが不十分だと思うので、本編では、はやる気持ちを抑えながら、本を読むのがすこぶる遅い筆者が、そこを充分に時間をかけながら読み込むところから始めて行こうと思っている。だからこういった概論的前奏が必要だったのである。