2023年5月1日
三枝明夫
「自己流の瞑想❶」(➡)では、自分が最近、何十年ぶりかで再開した瞑想(坐禅)が、ぬるま湯の風呂の中の半身浴での、ごく短時間のものであることを書いた。
歳のせいでもあるが、子供の時から硬かった体がさらにガチガチになって、半跏趺坐さえままならなくなっていた中で、しかし、ストレッチで体を柔らかくしてからやろうなどと考えるのではなく、今直ぐやろう(やりたい?それとも、やらネバ?)と思った結果、こういう方法を思いついてそのまま続いている。
慣れて来るに従って、だんだんとなんだかあまり短時間では物足りなくなって来て、その物足りなさの感覚にしたがって少しづづ長くしてきた。でも調子に乗ってあまり一気に長くすると、調子が上がらない時に今度はその長さが負担になってしまうと思ったので、決して無理のない程度に長くするようにしてきた。
調子が良いと上達したと思い込みこの先もずっと調子が良くなると思いがちだが、また必ず調子が悪くなる時がやって来ることも最近分かってきた。その分だけ「無常」とそれをあるがまま受け入れるということが少しできるようになってきたのかもしれない。
もっと上達したいと思うのは山々だが、上達を期待しすぎしたり上達してやろうと意思(意志)しすぎたりたりすると、かえって旨く行かないということも体感(直接体験)してきた。一旦やり始めたら、調子の悪い時も、息の荒い時も、反対に旨く進む時も、そのまま受け入れてただ淡々と進めて行くと、結果として少しづつ上達して行くことが最近分かってきた(これは瞑想自体から自身体感したことではあるが、直ぐ後で見る、テーラワーダ仏教協会式⦅マハシ式⦆や「只管打坐」⦅しかんたざ⦆から学んだことでもある)。
とにかく、こういったごく初期の段階なのに、第1章では少し能書きの方が勝ってしまった。何時もながらの能書先行。
最初からの構想に加え、書いている途中で、だんだん思考(妄想?)が膨らみはじめ、どうしてもあいだに思いつくまま能書を挟みたくなってしまうのである。瞑想中に止めるようにしている妄想(思考)をこういう形で解き放っているのだろう。でも妄想の飛翔であまり増上慢にならぬように、この辺でまた実際に瞑想の中で感じた話に戻ることにした。それらは全て、このあと見るように「自ず」の流れであろう。
能書を挟んで瞑想の話を中断していたお陰で、その間に、ヴィパッサナー瞑想についての何冊かの本と瞑想全般について、新たにいくつかのネット記事に出会うことが出来て自己流の瞑想の改善・進歩のヒントもだいぶ得た。
筆者の自己観察+数息観瞑想は、昔学んだ臨済禅の初歩に加え、マインドフルネス式のいくつかのネット記事の中から学んで、「自分の思考を観察する瞑想」=「ヴィパッサナー瞑想」だと単純に思い込んでやって来たのだが、本場の東南アジア由来の実際のそれにもいろんなやり方があって、どうやらそんな単純なものでもなさそうなので、そのいくつかの情報と自己流の瞑想とを照らし合わせ、本場のやり方から少し学んで見ることにした。特に、思考の観察というより、体の各感覚器官の感覚と、心の感覚である感情の観察が大切だということを知った。
この他にも、チベット系のゾクチェンや、ヒンズー教シャンカラ派系の超越瞑想など、他の様々な瞑想への関心も湧いてきてる。宗派的偏見を捨て、いろんなものに好奇心を持ち謙虚に学んで行くのも、「自己流」なのである。1949年生まれでもう歳も歳、足腰も衰え記憶力もだいぶ減退してきて、糖尿やら血圧やら歯槽膿漏などの持病も進行中だから、そんな夢も道半ばで終わるだろうとは思うが、できれば、途中で死ぬとしても自己観察しながら死んで行ければと思っている。
立花隆は「臨死体験」の研究をして、「死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験だから、いい夢を見ようという気持ちで人間は自然に死んでいくことができるんじゃないか」と、死が怖くなくなったと書いている(『死は怖くない』)が、自分にもこの体験が訪れてくれればいいのだがと思っている。それを最後の楽しみとしている。生き返って臨死体験を語る人は、生と死の境界で、自分の外から自己観察していたことになると思う。臨死体験については、この章の「意識」について考えるところで、ロジャー・ペンローズの量子脳理論などを見る予定なので、そこでもう一度触れることになるのではないかと思う。
ヴィパッサナー瞑想の様々な種類と、それらについての簡単な解説は、「知恵の海」さんhttp://cyberbaba.blog57.fc2.com/)を参照していただくと、概略が掴めるのでとても便利だ。
その中から今回は、日本テーラワーダ仏教協会(ミャンマー系)のスリランカ出身のスマナサーラ長老の本、『自分を変える気づきの瞑想法』に従って、自分の今までの「自己流」の瞑想を検証してみることにした。