しかし、現代のようなグローバルな文明の中でする社会生活では、「ベキ・ネバ」から逃れることはできない。仕事は言うに及ばず、誰の私的な日常生活でも、よくよく見れば見るほど、こまごまとしたことから大きなことまで、「ベキ・ネバ」で溢れかえっており、「シタイ」という内発性に従って、全部を生きれるわけではないことがわかる。だから、現実には、「シタイ」という内発性を出来るだけ大切にしながらも、「ベキ・ネバ」とも適度に折り合いをつけて生活していく他ないのである。
要は中道。あるいは容中律。あるいはバランス。「ベキ・ネバ」か「シタイ」かの、二項対立から離れることが肝要であろう。つい、「ベキ・ネバ」で思考してしまう自分をも、それで「息がせり上がってしまう」自分をも、まずはあるがままに受け入れていこう。
「自分の非を認める」ということと、「非の自分を受け入れる」ということは同じようであっても、その間には雲泥の差もある。「非の自分を受け入れる」が本当にできるようになってこそ、人は本当に「自分の非を認める」ことができるようになるだろう。
といった辺りまでが現在の「息のせりあがり」に対する省察(反省的意識)のレベルだが、さらに観察を積み重ねて行けば、もっと色々なことが、実感(直接体験)として分かって来るに違いない!だからこれからも、自分の「息のせり上がり」に気付くことは、相変わらず「嫌なこと」ではあり続けるが、同時に、むしろ更なる成長のチャンスの訪れでもあり続けるだろう。
この「呼吸がせり上がる」感覚も、自己観察が進んで来たせいか、最近はだいぶ改善してきてはいるが、まだ小さな「せり上がり」に時々気付くことがある。しかし、以前のような大きな「せり上がり」は来なくなって来ているようでもある。薄皮が剥がれる度に傷が治って行くように、この問題も次第に、徐々に、解決して行けばいいのだが。
でも、この「せり上がり」が、全く無くなる方向に向かうのか、それとも、それをある程度、あるがままに、自分の個性の一つとして受け入れて行く方向に向かうのかは、現時点ではまだ分からない。でもおそらく、それが無くなって行くということと、それを受け入れることとが、同じコインの裏表のような関係で進行して行くのではないかと思われる。
苦しみから逃れたい、その苦しみを克服したいというと思うのは、個としての生命の当然の働きではあるが、しかしそれはまだ、自我の働きの範疇のように思われる。
それに対して、その苦しみをあるがまま受け入れる(苦諦?)という方向性は、自己観察意識という、自我の外にいるもう一人の自分、すなわち、真の自己の働きの範疇のように思えるからだ。
縁起の全体世界としての真の自己は、あるがままの、筆者の個物としての自我が、苦しみ、あるいはそれを克服しようと格闘している様を、外から、ただ慈悲深く見つめ続けてている。
そのもう一人の自分である真の自己こそ、外から、自我の働きを、ただ価値判断抜きに見続ける、自己観察意識=純粋意識であろう。良い自分も、ダメな自分も、全ての自分を受け入れるという働きは、外の、自己観察意識の、真の自己の働きがあって初めて可能になると思われる。
こういった、悟りの芽としての、自己観察意識の働きの過程を経て、人は本当に変わって行くことができるもんなんだナア、年老いても成長して行けるもんなんだナア、という実感も湧きつつある。
この頃は、何でもかんでも一気にやろうと思わず、一つ一つ、ゆっくりと、着実に進めて行こうと心がけるようになっても来ている。
試しにそうやって見ると、今までいかにガチャガチャと、焦って、強引に行動してきたかが良くわかるようにもなってきた。そんなことばっかやっていては疲れるに決まっているワィ。ストレスは、ストレッサーとして外からやって来るばかりの問題ではない。そのコーピング(対処)の一つとして、自分の心(意識)の持ちようで、それを逓減させて行くことができる。
あるいは、その底には沢山の「ベキ・ネバ」が、そして自己犠牲への不満が、怒りとして沈潜していて、それを爆発させないように抑え続ける葛藤の過程こそが疲れを生んでいるとも言えよう。
アンガーマネジメント、即ち、抑圧されている怒りの爆発に支配されないようにするための方法は、臨床心理学的に色々開発されてはいるだろうが、自己観察はその中でも最有力の方法ではないかと思う。クラインの壺のような通路で、自己の外に回って観察者となったもう一人の自己が、やがてまた内に帰り、その怒りに無意識に支配されない意識的な主体になろうとするようになる。
そういった自己観察を更に前進させる、そういった意味で、マハシ式の、超スローモーな歩く瞑想のやり方の効果も実感できるようになって来た。じっくり自己観察しながら行動するには、なるべくゆっくりと余裕を持って行動する必要があるということでもある。
早くやることや、二つのことを同時にやることが、効率的かつ合理的だと今まで思い込んで来たが、そんな自分の思考・行動には、性格もさることながら、速さや合理性・効率性を旨として成長してきた、近代という時代の社会圧も、相当関与してきたのではないかとも思う。資本主義を批判しながら、自分からその資本主義を内面化し過ぎて来ていたのだろう(資本主義社会の、現在の未来による圧殺という性格は、投資⦅あるいは投機⦆や、給料という労働力商品としての労働者への後払いにも現れている)。
この焦りという、未来による現在の浸食とともに、トラウマという、過去による現在の浸食が、ともに、筆者の心を押しつぶしてきた正体であった。筆者のトラウマ体質(気質?)については、この「自己流の瞑想へ」の続きとして何時か書けるようになったら幸いである。
長老は、「意外に思われるかもしれませんが、『疲れた』ということは、悩んでいるということなのです」とも言っている。
筆者は、夜勤の長時間拘束の仕事の日には、時間を合理的に有効利用しようと考えて、待機・仮眠時間にもこういった文章を書いたり、本やネットの文章を読んだり、みんなの自転車の修理をしたりと、寸暇を惜しんで「充実」した時間を過ごそうと心がけてきたので、交感神経優位の時間がずっと続いていて、仮眠時間もなかなか寝付けなかったことが多い。それで明けで部屋に帰って来ると、途端に疲れが吹き出して、その反動で酒を渇飲して、グタグタ・ゴロゴロの、無為な時間を長時間過ごす必要があったようである。
それもそれで、反動という形での自然の摂理の働きで良いとは思うが、今後は、仕事時間中も、ゆっくり落ち着いて動き、あんまり無闇矢鱈にアドレナリンを放出せず、交感神経ばかりを高めず――を意識しながらの行動を心掛けるようにしようと思っている。そうできれば、帰宅時、少しは疲れが減ってるかどうか?
いや、多分、そうはすぐにはできないであろう。職場では、つい、色んなことが気になって、他の誰もが動こうとしないので、つい自分で色々やってしまうことが多い。人になるべく文句を言わないように、黙って静かに、陰徳的にやろうとは思うが、そうすればそうするほど、「自分勝手な」同僚への怒りが湧いて来て、その怒る自分への失望も大きくなる。ならば、何もやらなければいいのだが、でもやっぱり、そういった出しゃばりはやめることができないであろう。
なんとか、宮沢賢治の描くデクノボーのように、法華経の常不軽菩薩のように、全ての他者に尊敬の念を懐きつつ、他者への奉仕活動ができるような陰徳者に、自然な形でなりたいのだが、我執の塊である筆者は、そこで怒りを懐き、その怒りを抑圧し、葛藤してしまうので、そこに疲れが生まれてしまう。この、凡夫であることによって生まれる筆者の疲れは、当分解消しそうにないので、当面、その疲れをよくよく観察しながら受け入れていくしかないようである。
疲れは、色々な原因が重複して起きていると思うので、長老のように、「疲れは悩みがあるから起きる」と、あまり、線形的・心因論的・因果論的に一本槍に考えようとは思わないが、でも長老の言うように、「意外ではあるが」、疲れは、「悩み」、つまり、心の持ちようが一番大きく関係しているのかもしれないと強く思うようになった今日この頃である。