⚫「外部観測」的でもあり、「内部観測」的でもある自己観察――
自己観察で言う観察は、一切の思考=価値判断を停止して行う。そういった意味において自己観察は、観察される思考の外部にある、言わば内部観測論言うところの、真の意味での「外部観測」だと言える。前項でもその外部階層性を強調した。
外部観測と言えば、普通には、科学的手法の観察がそれを代表するように、観測する主観(主体)と観測される客観(客体)が相互に独立していて影響を与え合うようなことのない形式、つまり、主客二元論図式に基づく観察のことだとされる。科学的観測に限らず、人間の普通のものの見方が、この主客図式で構成されているというのが、近代の自明な世界観であった。
しかし、量子論的世界ではこの自明性が崩壊し、素粒子を粒子として観た場合、観測するために当てる光(光子)が観測される電子を弾き飛ばしてしまうので、正確な観測は不可能になるという(「不確定性原理」)。それは等身大の世界とはスケールの次元の違う、素粒子という微視的世界だけの話だと言う人もいるが、実際はそんなことはない。
例えば、人文科学の人類学のフィールドワークで、人類学者の質問に対して、未開社会の現地人は多少なりともよそ行きの態度で応答してきたことであろう。ということは、人類学者のフィールドワークという等身大のスケールの観測も、決して主客二元論的には行い得ないということである。つまり、その等身大的スケールの世界でも、量子論的微視的世界と原理的に同じようなことが起きていると言うことである。人類学者という主体の観測行為が、対象に影響を及ぼしてしまっているのだ。そこでは、「主客図式」ならぬ「主々図式」とも言えるような、内部観測論的構造が現出している。
ただ、人類学者は何時も質問者に徹し、自己主張は極力控え、現地人が何時もストレスなく発言・行動できるように注力することで、そこにある程度の階層性が生まれるように、できるだけ客観性が担保されるように、学者としての配慮をして来たことであろう。しかしそれでも、フィールドワーカーと現地人の間にあるのは、基本的には主々図式=内部観測であろう。そして、そこに生まれる主体と主体との共感性が、かえって優れたフィールドワークを生むようなこともあったように思う。
つまり同じ階層のスケールの中にある者(物)同士の間では、たとえ微視的であろうが、等身大的であろうが、あるいは巨視的であろうが、その大きさのスケールによって、外部観測と内部観測を隔てる階層=次元の違いは生まれないということだ。
それでは、自己観察意識と一般の自己思考意識を隔てる階層とは、一体どのようなものなのだろうか?
木村敏(『自己と時間』)は、「こと」と「もの」の存在論的差異を述べる中で、「もの」は、「こと」と距離を置き、覚めた目で対象化(客観化)するところに生まれる、と述べている。ここで言われている「こと」とは、動詞や形容詞などの、名詞化する以前の述語的状態の段階の表現を指す。
つまり、「(リンゴが)落ちる」という、移ろいつつある状態の変化の表現が「こと」であるが、その状態が「落ちるリンゴ」と名詞化されてしまうとき、それは「もの」に変化してしまう。
その「こと」自体も、「落ちること」と名詞化して、主語になりうる表現に変化すると、たちまちのうちに「もの」としての「こと」に変化してしまうような、とても不安定な状態を指して表現されるのが「こと」なのである。
木村の言う(対象化されたところに現れる「もの」と対比される)「こと」は、その対象化以前の主客未分の状態の段階の表現である。
日本語では古くは「言」は、そのまま「事」であったが、平安期から「言の端」を意味する「言葉」の用例が生まれるようになったそうだが、その用例に、合理的思考の中で生じる、「こと」の「もの」への変化の歴史が反映されているらしい。
またそれに伴って――これは木村敏が言っていることではないが――「もの」も、その
「胎内」から、「大物、物部、物貰い、もののあわれ、もの悲し」などの用例からうかがえる、不思議を秘めた「マナ」(オーストロネシア語ー「もの」の原語か?))性を次第に失っていくことになる。
木村はこの本ではまだそれについては触れていないが、それを「述語的思考」と「主語的思考」とに置き換えてみてもよかろう。動詞(落ちる)とか形容詞(青い~赤い)というリンゴの移ろい変わる述語的状態が、「落ちるリンゴ」や「赤いリンゴ」と固定化され主語化されたときに、それは「もの」に変化する。さらに、内部観測論(➡)に従って、その「こと」を「内部観測」的と、「もの」を「外部観測」的と言い換えてもよかろう。
こうした木村敏の、「こと」と「もの」の存在論的差異に関する言及から考えると、自己観察は、思考・感情・身体としての自己に距離を置いて覚めた目で観察するという意味においては観察される自己を対象化しており、その自己を超越しており、そこに自己の階層次元の違いが生まれるということにおいて「外部観測」的である。しかし、それが他人には決して出来ない、自分だけにしか可能でない観察だという意味においては「内部観測」的である。
ということは、外部的だとか、内部的だとかと、二者択一的に固定化してはとらえられないような行為だということである。そうすると、その階層も、決して固定的な「もの」ではないということになる。
この、内部と外部が曖昧で境界を持たないような状態で思いつくのは、クラインの壺(あるいはメビウスの帯)というトポロジー図形だが、これについては次章で考察しよう(➡)。
また、「もの」は、時間とともに変化する「こと」を、時間を止めて観察することによって生まれるものだと言えよう。人間の「大脳」的知性は、空間認識において時間の座標軸を持たない、こういった三次元的空間把握を得意としている。アインシュタインの相対論も、こういった次元を超える4次元的世界認識を人類に教えてはくれたが、宇宙を未だ「もの」(物質)の集合体として観察しているという点から言えば、未だ3次元の尻尾をつけた世界観のように、物理学の苦手な文科系の筆者には思えてしまうのだが、どうだろうか?
「もの」は、時間を止めてしか観察できないものだと思う。我々が「もの」を観察できるのは、人間の等身大のスケールに沿った時間意識で世界を見ているからに過ぎないのではないだろうか?
時間は生き物のスケールによって、相対的(本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間』)に流れているようだ。ゾウにはゾウの、ネズミにはネズミの、細菌には細菌の、それぞれ身体のスケールに応じた相対的な時間が流れているが、人間の近代科学は、そういった主体と無関係な客観的な時間が流れているとする。
目の前にあるガラスのコップが、その形を整え失う全過程を長いスパンで眺めると、まず砂浜でその原料となる珪砂が採掘され、工場で科学的に合成されたり加工されたりといういくつかの作業の過程を経てその形が生まれ、使われてやがて割れてゴミとして廃棄されリサイクルされて更に溶かされ他の製品に作り直される。あるいは粉々になってまた海岸の砂の一部に戻ってしまうかもしれない。その全過程を、人間が個々のウィルスの一生を見るように、一瞬のことのように見れる時間的スケールの生物がもし居たとすれば、ガラスのコッップという、人間の三次元的認識の中で現れる固定的な形は、動画ではなく、静止画像にしてしか認識できないのではないだろうか?悠久な時間の早回しの中では、固定的なものの存在は空しい。色即是空。諸行無常。驕る平家は久しからずや。
「時間」の問題で言えば、「過去―現在―未来」という時間意識と、「(永遠の)今」という時間意識の違いという、とても重要な問題があるが、このことはまた項を改めて探求しようと思う。