――その❸―コトの世界――
コトの方は、前述のモノのように対象=客観になることはない、と木村は言う。
景色を見てその美しさに夢中になっている瞬間には、景色もその美しさも客観になっていないということである。
景色とそれを美しいと感じるコトのあいだには、なんらの距離もおかれていないから、「(われわれが)その景色と一体になっている」というようなことが良く言われる。
その美しさに夢中になっている瞬間には、その美しさについて「何故美しいのか?」などと考えず、ただただ美しいと感じているだけなので、景色もその美しさも客観にはなってはいないのである。
「あるというコトは、われわれがそれであるコトによってのみ、それがどういうコトであるのかがわかるような、そういう事実である。」
この木村の言い回しはかなり難解ではあるが、要するに、木村がコトについてこのように自己言及的に書いていることも、それを引用しながら筆者がここでそれを自己流に理解したことを今書いていることも、皆、コトを「それが『何か』という」問い(主観による)の対象(客観)にしていることになるので、それは本当のコトではなく、コトのモノ化の作業になってしまっているのである。
言い換えると、問うということは、問う者と問われる物との間に距離が生まれるということであり、「われわれがそれであるコトによってのみ、それがどういうコトであるのかがわかるような」事態ではないということである。
このように、客観的=対象的なモノとして現れるのではないような、それとは全く別種の世界の現れかたのことを、日本語ではコトと呼んでいる。
もっと噛み砕いて言うと、モノとは頭で理屈として考える対象、コトは心で感じる非対象のことだと言っても差し支え無かろう。
例えば、瞑想による、言葉では決して語りきれないような、法悦や悟りといった直接体験(鈴木大拙はこれを「霊性的直覚」と言った)がコトであり、その直接体験をアレコレと言葉で説明しようとすると、それは対象化しようとする作業になり、そこで途端にコトがモノ化されてしまうことになるので、やはりコトそのものは、言葉では純粋には言い表せない。
これを禅宗では「不立文字」(ふりゅうもんじ)と表現している。
そういったコトは、すべてきわめて不安定な性格を帯びている。
コトは、どうしてもモノのように客観的に固定化することができない。常に流動し変わり続けているので不安定きわまりないのである。
色も形も大きさも一定しないし、第一、場所を指定してやることもできない。
このコトが仏教の言う「無常」や「空」に、モノが「色」(しき)に該当する。
このコトとモノの「存在論的差異」を、中沢新一(『レンマ学』)的な「認識論的差異」として読み替えると、コトによる認識がレンマ的知性に、モノによるそれがロゴス的知性に、それぞれ該当するだろう。
自分が景色を見て美しいと思っているコト、このコトは自分の側で起っていることのようでもあるし、景色の側で起っていることのようでもある。
あるいはそのどちらの側で起っていることでもなくて、自分と景色の両方を包む、もっと高次元の場所での出来事のようでもある。
脳のONとOFFのシナプス機能が生み出すロゴス的知性としての我々の「意識」は――あくまでも一般的意識のことで、自己観察意識のそれとは別の――この種の不安定さを好まない。
それは、我々が「自己」とか「自分」とか「私」とかの名で呼んでいるものが、実は、意識の対象のモノではなくて、「自分であること」、「私であること」といったコトであり、それ自身はっきりした形や所在をもたない不安定なものだという事情から来ているのかもしれない、と木村は言う。
このコトとしての「自己」こそ、悟りとして体感される無我としての自己のことでもあろう。
また、この「自己とは何か」という問いは、このホームページのメインテーマ→「何故人間は祝祭を必要とするのか?」という問いとも重なるであろう。
が、さしあたり、この論考のテーマである〈自己観察意識〉が、この(一般的)意識や、このコトとしての自己と、どういった関係にあるのかが問題になろう。
この問題は、この章の「コトとしての意識」のところで更に考えることにしよう(➦)