⚫再びマハシ式ヴィパッサナー瞑想――

2023年5月2日
                                  三枝明夫

 また、マハ氏式瞑想の話に戻ろう。
❷スローモーションで動くのは、ラベリングとともに、瞑想に必要な集中力(三昧力=禅定力)を養うためだと言う。これ以上できないぐらいのスローモーな動きをずっと観察し続けるには、たしかに集中力が要りそうだ。
 
この点、筆者の瞑想が、いつも思考=雑念で満ちてしまうのは、この集中力がまだ欠如しているせいであるようなので、「自分は思考を雑念として排除しない」などと言いつつも、坐禅で教わった数息観だけでなく、このラベリングによる、超スローモーの「立つ瞑想」や「歩く瞑想」(座禅の経行-きんひん-に相当)もぜひ、学んで試して見ようとは思っている。
 そして実際に、後で書くように、自分の日常の「嫌なことがあったときの瞑想」に向かいあったとき、必要に迫られて、日常行動の中で――日常行動だから超スローモーにとはなかなかいかなかったのだが――なるべくそれを意識して、ノンストップの実況中継を心の中で実際に唱えて見たこともある。
 そしてこれがきっかけになって、この後の「自己流の瞑想③」で書くように、自分にとっての、とても大きな気付きに到達することになる。日常活動を観察するためには、観察する余裕を生むために、行動をある程度でもゆっくりと進める必要が生まれてくる。その観察のためのゆっくりした行動が、自分の日常的な焦った行動や、その理由についての気付きを生んでくれたのである。それは神経症的自己の観察にとても役立った。自分の神経症が良く見えるようになれば、その克服(=受容?)の道も良く開けるようになるであろう。
 長老よ、ありがとう!
 
➌「感覚」の観察を特に重視するのは、マインドフルネス瞑想のとても大きなルーツの一つでもあろう、ゴエンカ氏式の瞑想でも同じである。
 仏教では感覚を六識に分別する。眼・耳・舌・鼻・体(皮膚、筋肉、内蔵などの神経組織による体感)の五根による五識と、心(第六根)の感覚である感情という六根による六識の感覚・感情がそれである。
 特に、心による第六識を「意識」と呼んでいるが、この問題は、自己観察の「意識」が一般の思考意識とどのように異なる意識なのか?そもそも、意識とは何なのか?という、この章の中心テーマを展開するところで、後で再考するつもりである(未執筆)。
 自己のこの六識を、それと次元の異なる識(自己観察意識)を研ぎ澄ませて、徹底して冷静に観察していくのがヴィパッサナー瞑想である。感覚・感情は、個物としての自己と外界や心と体を関係づける扇の要である。感覚・感情を観察するためには、感覚・感情的に観察していたのでは観察にならない。自己観察は、感覚・感情という地平の外、ないしは上の次元に行くという行為である。
 例えば、坐る瞑想中に体の何処かに痛みを感じたとしても、安易に姿勢を変えたりせず、ぎりぎりのところまでそれを観察してみると、観察する前はそれを意識しすぎるとかえって感覚が増幅されるような気がしていたのが、逆に、冷静に観察し続けると、いつの間にかその痛みがなくなってしまっていることに気づく場合も多い(我慢できず、たまらず姿勢を変えてしまう場合もあるにはあるが)。痛みから気をそらして逃れようとすると、その痛みに捕われて、かえって其の痛みが気になってしまったり、その他の感覚も次々と気になり始めたりして、その度に姿勢を変えたくなって来る。そういった様々な感覚に対する外部の観察者になる。痛みなどの自分の感覚をずっと観察し続けていくと、自分に訪れる感覚というものが、いかに流動的=無常かということがよく分かってくる。 
 心の感覚である、怒りや焦りや苦しみといったネガティブな感情も、呼吸や身体各部のネガティブな感覚と、そして価値判断する思考=自我意識と必ず結びついている。価値判断を停止することと、感情から離れることは、同じことなのである。
 感覚・感情にフォーカスして観察していくと、それに結び付いた思考(妄想)を、自我(我執)が産んでいることがだんだん分かってくる。

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