⚫「呼吸のせり上がり」の正体――

 今は、この「呼吸がせり上がる」という身体感覚の問題についての省察は、前回(「自己流の瞑想へ②)」)で書いた時よりも、もっと具体的に進んで来ている。焦っていて、息を吐ききる前に吸おうとしてしまっているのではないかと思うのだ。それが「呼吸がせり上がる」という感覚を生むのではないかと…。
 つまり、一種の、軽い過換気症候群かもしれず、もしそうなら、それが亢進すると、やがて呼吸そのものができなくなったり、痙攣など、様々な身体症状をきたすようになるという。
 何故そういった過呼吸になるのかというと、筆者の場合、「これもやるベキ、あれもやらネバ、というようなことが頭に浮かんで来た時」や、さらにそんな時に、それよりももっと重要な、差し迫った「ベキ・ネバ」を思い出したりしたときなどにそうなってしまっていたようなのだ。
 「ベキ・ネバ」が知らず知らずのうちに生む緊張が、そういった呼吸の異常につながっているようなのだ。
 それが嵩じて、胸の一部に痛みを感じるようになるときもあった。きっと不自然な呼吸で、肺の働きに無理が生じたからだろう。そんな自分に、あるとき、「君は真面目で、責任感が強くて、何でも自分でやろうと思うんだね。けなげだねぇ♥」と慰めの言葉をかけてみた。そうすると、胸の痛みがスーッと遠のいて行ったのである。もっとも、この胸の痛みは、他の何かの病気のサインの可能性もあるので、評価をニュートラルにして、引き続き観察し続けておく必要はあるだろうが。
 風邪の発熱が、細菌やウィルスをやっつけるための自然治療過程でもあるように、全ての病気が、病気であると同時に病気の自然治癒過程でもあるという見方をすれば、この過呼吸も、生理的な必然性があって生まれるものであろう。考えるに、緊張に応じた酸素量が生理的に必要になっているからではないかと思う、知ランケド
 どんな嫌な自分に対しても、もう一人の自分がその外に出て、落ち着いて見ていられるようになれば、そういった酸素量は必要無くなるのではないかとも思う。

 この「ベキ・ネバ」(当為または義務)思考は、時間的な問題で言えば、現在が未来の犠牲にされているという、あるいは、現在が過去から追い立てられている問題としてある。それが「焦り」ということであろう。「生きる」ということは「今を生きる」ということだが、それが充分にできないということは、病んでいるということになる。
 スマナサーラ長老は、「『やらなくては』という強迫観念は怒りから現れるもの」だとこの本で指摘している。確かに、「ベキ・ネバ」に追われて焦っていると、自分の進もうとしている道を塞がれたときなど、前方でモタついている人がいると、それがたとえ体の衰えた老人や障碍者であっても、つい苛ついてしまったりするので、やはりそうかもしれないナと思う。
 自分に「ベキ・ネバ」を課す者は、他人に向けた「ベキ・ネバ」も心の底に沈潜させているから、それを守らない他者への怒りも沈潜させており、それが蓄積すると突然怒りが爆発する時があるので、注意が必要。
 その怒りが自分に向かうときもある。自我理想が高く、至らぬ現実の自分に怒りを感じてしまうことがある。もっと前にやるベキだった大切な用事を思い出したときなど、それを思い出せたというポジティブな側面よりも、それを忘れてしまっていたというネガティブな側面ばかりに思考・感情の焦点が当たってしまう。自分の記憶力がもっと優れていなければならないと感じたり、心身の自然な働きを無視して、「ベキ・ネバ」に応じて自分の思い通りに自分をコントロールしようと思ったりするのは、自我(我執)の働きであろう。 
 だからこれは、現在が未来に侵食されているという時間の問題であると共に、「自我」(我執)という、自己の問題でもある。
 「やらなければならない」という強迫観念(スマナサーラ長老)…強迫観念?それだ! これはまた、一種の強迫障害(強迫神経症)の類いでもあるということだろう。
 また、昨日まで平気だったことが急に不安になることが時たまある。何が不安なのかよくわからないが、きっと、根底に、あるがままの自分に自信(安心)が持ててないので――それは、遺伝もあるだろうが、それ以上に精神分析が言うように、親(ガチャ?)の「ベキ・ネバ」による育てられ方に問題があったからだろうが、それを今更愚痴ってもあまり解決にならない――それで不安になるのであろう。こうなったときは不安障害(不安神経症)の状態。
 それを、人間関係に気を使い過ぎ、緊張し過ぎて疲れ果ててしまうという側面から見れば、今度は対人恐怖症(社交不安障害)という、これもまた神経症の別な症状。
 また、そういった様々な緊張の精神状態が重なり、それでストレスが溜まり過ぎ疲れきって、自然の摂理が無意識に働き、心身共に休ませさせようとした結果、鬱状態になれば、今度は抑鬱障害(抑鬱神経症)である。
 「三ちゃん病」と呼ばれていた筆者のこの鬱は、こうった各側面の神経症から来る抑鬱で、「大鬱病」の鬱とはちょっと違うようだが、たとえ風呂の中での短時間の楽ちん瞑想であっても、それを始めてから、とりあえずこれを「克服」できたと思い込んでいた。
 しかし、この「息のせり上がり」に向き合って見ると、神経症本体からは、まだまだサヨナラ出来てはいなかったようである。「何々障害」だの、「何々神経症」などと色々区分けされてはいるが、筆者の神経症は、要はそれらを全て併せ持つ「ベキ・ネバ」病であり、別名、「時間と自己」病だということが、だんだんと実感的に分かって来出したのである。
 ところが筆者は、ずっと前から、ことあるごとに自分はベキ・ネバではなく、「したい」という内発性に従って生きていくのだと、またそうして来たのだと、だから瞑想も自己流なのだと宣言し続けて来たのだが、現実には、このように、まだ本当にそうは出来ていなかったのである。
 いやむしろ、そうであるからこそ――無意識的な自己治療という側面もあったとは思うが――むしろ「ベキ・ネバ思考であるベキではない!ベキ・ネバ思考から脱出せネバならない!」と、さらに被せて「ベキ・ネバ」思考に陥っていたようである。  

    前へ   次へ   目次へ