⚫原意識の高次の自己実現として――

⚫原意識の高次の自己実現として――

 またちょっと能書きを挟もう。
 自己観察とは――フッサール現象学的に言えば――エポケー(判断停止)の観察の後、オートマティック(自動的)に湧いてくる省察によって、人間脳の段階で初めて獲得出来た(?)メタ認知能力を使って、自分が抑圧してしまっていた潜在意識である「末那識(まなしき)」(唯識論の言う我執的無意識)を意識表面に登らせ、それを直視するやり方を通して自己治療していく中で、そのさらに底にある、脳以前の、あるいは脳を超えた、「阿頼耶識(あらやしき)」(中沢新一の言うレンマ的知性≒フッサール的純粋意識≒汎心論の言う原意識や宇宙意識≒禅の言う本来の面目)に出会うことであろう。
 原意識(レンマ的知性)から、分別意識(ロゴス的知性)を獲得してきたことが進化だと、文明の長い歴史の中で考えられて来たが、それはまだ本当の進化ではなかったのである。それはむしろ退化の側面を持っていた。その意識の退化的側面(ホモ・デメンス性➡)が、内と外の「狂気」=自然破壊や大量殺戮戦争を生んできたのであろう。そこにはいつも国家があった。
 そういった文明の危機も、人類が、全ての生命が予め持っている原意識(レンマ的知性)の力、その知性の高さに意識的(メタ認知的)に気付けたとき、乗り越えることができるのではないだろうか?そこにこそ心≒文明の本当の進化があるのではないだろうか?
 それをヘーゲル弁証法的に言うと、「定立」あるいは「正」がレンマ的知性(原-絶対精神?)にあたり、「反定立」あるいは「反」が「ロゴス的知性」であり、そのロゴス的知性をもって、自分の中に元々無意識として流れていたレンマ的知性(原意識)に意識的に気付いていくことがアウフヘーベン(止揚)、つまり、より高次の次元への綜合(「合」)、原-絶対精神の自己実現(絶対精神)だということになろう。
 それはプラトンの「イデア」と同じものであろう。それらは「観念論」の代表的な概念だとされてきたが、それを原意識やレンマ的知性として、生命とそれを生んだ物質‐宇宙の歴史の中で跡付けることができれば、それは途端に「唯物論」的な概念に変容するだろう。と言うよりも、観念論VS唯物論物質VS精神(心)と言った不毛な二元論を克服する哲学的地平がそこに開けるだろう。

 尤も、スマナサーラ長老は他の本で、小脳思考から大脳思考に切り替えることが悟りだとしていて、こういった考え方とは、それは一見正反対のようにも見えるが、それらの違いは単に言葉による解釈の違いの問題であって、直接体験としての、「悟り」それ自体の中身に違いは無いのではないかと思っている。
 違いがあるとすれば、悟りの程度の違いであり――程度の差が質の差に転換することはあっても――世界中の各宗派や無宗派個々人の「悟り」が、経験的(直接体験的)には同じものであろう。
 これらについては、この章でこの後にもっと詳しく見て行こうと思っている()。
 華厳思想では、微細なものの中に全体が含まれていると説く(一即多)。徹底した自己観察によって悟りがもたらされるようになるのだと思うが、その論理からすれば、大脳的メタ認知能力に依拠しながらも、しかし大脳的なロゴス的な価値判断をしないと言う点では原意識=純粋意識である自己観察それ自体が、すでに一つの悟りだと言えよう。あるいは悟りの芽。
 また、自分の日常が四苦八苦であり、我執という煩悩の塊りであることに、観察を通して気付いて行くことが悟りであると言うのならば、苦悩や煩悩それ自体も、悟芽だと言うことが出来よう。なにしろ、苦悩や煩悩がなければ悟りもないのだから。煩悩即菩提。

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