――その❺―モノとコトの共生関係――

――その❺―モノとコトの共生関係――

以上見て来たように、モノとコトには本性上の差異があり、言葉というモノを使って純粋なコトを表すことはできない。
 それでもなお人間は、その事の端である言葉を使って、できるだけ純粋なコトに近づこうと工夫して来た。
 特に芸術が、言葉や他の様々なモノを手段としてコトを表現する方法を編み出して来たのである。芸術の真髄は、モノを通して純粋なコトに肉迫するところにあるようだ。

 詩は、モノを表すのに適した言葉という手段を使ってコトを表そうとする芸術の一つだが、優れた詩はその言葉の中に、生き生きとしたコトを住まわせており、そこにはモノとコトの共生関係が成立している。
 木村がその例としてあげているのが、芭蕉の次の一句である。

 古池や蛙飛び込む水の音

 この句は、古池、そこに飛び込む蛙、そのときに起きた水の音、といった体言止め(名詞終わり)のモノのみで構成されている。しかしこの句が名句とされるのは、多くの読者が、その並べられたモノから豊かなコトを感じ取ってしまうからである。
 そこに並べられたモノは、単に客観的なモノとして羅列されているのではなく、芭蕉自身がまさにそこに立ち会っているという、そして読者である我々もまたそこに立ち会っているかの如くに感じられるような臨場感の下に並べられている。
 このとき、このように並べられた言葉というモノが、まさにコトの象徴記号として働いている。
 モノを対象として客観視するためにある言葉や意識が、例え純粋なコトではないにしても、こうしてモノをを通してコトを表現する「言=事」になることもできるのである。
 客観的なモノは、主観の感情をあまり揺り動かさない。感動は、その客観と主観の対立が消え、一体化したときに始めて生まれるが、人間はモノをそのコトに共生させ、モノを通してコト(「事」)を「言」として表現することで感動を呼ぶことができる。

 この共生関係は西田幾多郎的に言えば、「一即多」の「絶対矛盾的自己同一」といったところだろう(この場合、一がコトで多がモノということになる)。
 また、この存在論を認識論に変換して中沢新一的に言えば、コトを認識する能力がレンマ的知性で、モノを認識する能力がロゴス的知性ということになろう。
 さらに、これを大乗仏教の華厳教学の四法界(事法界、理法界、理事無礙法界、事々無礙法界)で言えば、そのうちの3番目の理事無礙法界(りじむげほっかい)だということになろう。
 つまり、コト(事)と、「理」つまりそれを対象化(モノ化)する理論とが、融通無碍(ゆうづうむげ)に、妨げ合うことなく溶け合っている状態だということである。
 コトは理論的に対象化されることでモノ化するが、そのモノ化を通しても、モノとコトを共生関係に置くことができる。
 瞑想とは、自己観察(スマナサーラ長老の言うように、それは一見、究極のロゴス的知性のようにも見えるが、それについては後でまた、意識の項で詳しく見ていきたいと思う)を使って、見失っていた内なるレンマ的知性に直接に気づいて行くことであろう。
 瞑想ヘの志しや数息観などの方法論は「理」(ロゴス)であろうが、瞑想の中の直接体験は、華厳教学四法界の四番目、「事々無礙法界」(じじむげほっかい)の境涯に入って行くことであろう。
 だから瞑想も、「理」と「事」の、ロゴス的知性とレンマ的知性の、モノとコトの共生関係の中にあると言えるだろう。
 また、こうしてコト、あるいはコトとモノの関係について言葉によってできるだけ理論的に論じて行こうとするこうした文章自体が、この共生関係を作ろうとする一つの方法である。

 ただ、「コト↔モノ」論については、未だ本当の深い意味を知らずにいるような、ここで展開した考え方の下に、後で、あっと思うような意味が立ち現れてくるような気もしている。

 『時間と自己』では他にも、この論考に関係する重要な指摘がまだまだあるが、とりあえずはこの辺にしておいて、次項から、「コトとしての生命」の本題に入ろう。

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