2023年5月2日
三枝明夫
この本(『自分を変える気づきの瞑想法』)では「日常の瞑想」の一つとして、⑤「嫌なことがあったときの瞑想」が特に取り上げられているが、これは上記の❸「感覚の観察」と関係している。「嫌なこと」とは、「嫌な気持ち(感情=心の感覚)」になることだからである。
前から、こういった自分のネガティブな場面に一番の自己観察の醍醐味があると、理屈としては考えてきたが、この本の指摘を受けて、改めて自分の現状を省察すると、まだまだ日常の自己観察が未熟であったことに気付けたので、現在、具体的にこの点の自己観察を継続中である。
この本では、例として、怒りの感情が湧いた時のことについて書いてあるが、筆者のこの項を書き始めたころの一番の「嫌なこと」とは、自分の日常の、時々訪れる不自然な呼吸の問題にあった。
自己観察瞑想をするようになってしばらく経ってから、日常の生活でもそれをし始めた最初の頃のことで覚えているのが、自分の呼吸が異常をきたしていることへの気付きだった。
ずっと以前から、時々、呼吸が胸の上の方にせり上がっているような息苦しさを覚えることがあった。それが昂じて時には胸の痛みを感じるようなこともあったが、瞑想で自己観察するようになってしばらくして、日常でもそれをやってみようとなった最初の頃、巡回の仕事で歩いていて、今まさにそうなっていることに気付き、それをしばらく観察してみることにしたのである。
自己観察の後のその時の反省的思考(省察)では、「これは、何かに焦っていて、『今、ここ』が、過去や未来の犠牲になってしまっていることの身体表現では?」というような、間違ってはいないが、未だ観念的・抽象的な段階の「気付き」だった。
そしていつの間にかこの問題を忘れてしまっていたのであるが、実はまだ解決してなかったことに、しばらくしてまた気付くことになった。そしてそれから一旦そのことに気付いたら、その後やたらとそのことが気になりはじめたのである。
この問題を卒業できたと思い込んでいたのは、無意識にこの問題から目をそらし続けて来たからのようだった。そらし続けていると、それは無意識の中で蓄積され続けて大きくなり、やがて爆発して意識表面に浮上してくるようになるだろう。
精神分析で言う「抑圧」という、自我の「防衛機制」の無意識の働きだと思う。精神分析ではそれを、自我の未熟さ、脆弱さのせいだとして、自我を確立することでこれを卒業出来るとする。
しかし、ヴィパッサナー瞑想では、その逆を行く。むしろ、自我の働きをどんどん弱めて行って、最終的には無我、即ち、自我そのものを消滅して行こうとするのである。
自我とは何だろうか?未熟な自我は何故確立が期待されたり、その逆に消滅が期待されたりするのだろうか?筆者はその答えを、仏教的知識において、言語的=理論的にはある程度知っている。しかし、「直接体験」(ゴエンカ氏『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』)的には、まだ理解していない。そして実際の瞑想―自己観察を通して、直接体験的な地平でそれを獲得しようと、今、実践中である。
「呼吸の(が)せり上がり(る)」(この表現も一つの「ラベリング」である)息苦しくなるのが、以前よりやたらと気になり出したということを、それだけ病気が進んでいると見る向きもあるかも知れないが、瞑想的には、それだけ自己観察が進んでいる証拠だということになろう。
臨床心理学的に言うと、認知行動療法における「曝露療法」(エクスポージャー療法)に近いかも知れない。
現状で「呼吸がせり上がって」いることに気付かなくなるということの方が、かえって、自分の置かれている現実から無意識に目をそらしている(抑圧している)ということになり、それに頻繁に気付くようになったということは、自分の置かれている現実を以前より直接体験するようになったということであり、それは自己観察の一歩前進だと言える。
自己観察は、観察される自我(価値判断する思考意識)の外に出ることであるが、それをユング的に言えば、自己(セルフ)が自我(エゴ)を俯瞰する次元に登るということであり、それは、苦しみという感情の外に出て、その感情の傍観者、超越者になるということでもある。
観察を続け、こういった息苦しさを直接体験し続けて行くと、やがて、観察が洗練されて来て、だんだんと本当に他人事のように、その苦しみに巻き込まれることなく、平気で観察出来るようになって行くだろう(まだその過程を歩み始めたばかりであるが)。
それは、苦しみを受容していくということと、苦しみが和らいだり、そこから卒業していくことが、同時に進む過程であろう。
(➡「自己流の瞑想③」につづく)