第一章 自己観察意識と根源的自己意識
⑴瞑想➝日常の自己観察意識 三枝明夫
<目次>
●様々な瞑想―/ ●自己流の瞑想ヘ❶―/ ●観察と階層(二つの自己)―/ ●「外部観測」的でもあり「内部観測」的でもある自己観察―/ ●自己観察意識の数論―/ ●西田「無の場所」と自己観察の「無」―
⚫様々な瞑想――
怠け者の筆者が最近瞑想なんかに手を出しているのは、長年うつ病というか、抑うつ神経症というか、とにかくうつ状態に落ち込むことがやたらと多かったせいである。
瞑想のやり方にも色々あり、それぞれに長所と短所があるようだ。その中の仏教的瞑想では、大きく分けて「止観」、すなわち、「止」(サマタ)と「観」(ヴィパッサナー)の二つのやり方があるという。もちろんそのどちらかだけというわけでなく、他にもその分類にきれいに収まり切らないような色々な優れた瞑想があるようだ。
たとえば、マントラ(呪文)を唱える超越瞑想。筆者はまだ試したことはないが、マントラそのものの意味は問題にせず、ただそれをひたすら唱えているうちに、自動的に、とても静かで快感を伴う心境に入れると言い、これが素人に一番楽な瞑想法なのだそうだ。そのうち余裕が出来たら是非試してみたいと思っている。
また、中沢新一がチベット(仏教)で体験したという「慈悲の瞑想」も、こういった分け方で言うと、どうも「観」の部類に入るようにも思えるが、そういった分け方ができないような瞑想なのかもしれない。
広く言うと、一心不乱に行う念仏や御題目、読経や写経やヨーガなども瞑想の一つに入ると言うし、宗教的なことを離れても、「何々三昧」と言われる、対象への没入は全て瞑想の要素を持つと言われている。
例えば最近、筆者はスマホで、島津亜矢や、宇多田ヒカルの歌に夢中になってしまって、次々と聞き入り、まるで浦島太郎のようにその間、時が経つのを忘れ、自分という存在も一緒に忘れてしまうような経験をした。もちろん、ライブ・コンサートで熱狂する若者たちはそれ以上の忘我の経験をしているに違いない。
こういったささいな経験の中にも瞑想的なものが潜んでいるように思える。でも、そういったことは、意識的な瞑想を体験して見て初めて実感できることなのかもしれない。
この後でもっと詳しく見ることになるが、対象への没入は、思考への没入=思考との自己の同一化を防いでくれる。自我は、思考の中に棲んでいると思える。対象への没入とは忘我(自我から離脱すること)の境地であり、そこに瞑想的効果が生まれていると言える。
筆者が数十年前のまだ若い頃に習ったことのある瞑想法は、日本の臨済宗系で教える「数息観(すそくかん)」だったが、それはサマタ瞑想の部類に入るように思うが、息を数えていることへの自覚が薄らいでしまうといつの間にか思考に陥ってしまうので、自覚とは自己観察とほぼ同義だから、これも広い意味で、自己観察(ヴィパッサナー)瞑想だと言えなくもない。数息観も、数を数えていることを自己観察し続けていなければ、うまく行かないようである(筆者は今もあまり旨くできない)。
数息観では、息する数に意識を集中して、普段、知らずしらずのうちに繰り返している思考=雑念を止める「訓練」をする。吐く息、吸う息に一つ一つ意識を集め、それを十回づつ、ただひたすら繰り返し数えるだけ。
でも、経験して見れば分かることだが、思考を止めるためにする、たった十回の数がなかなか数えられない。たいがいはその間に、いつの間にか思考におちいってしまう。
筆者の場合は数息観をやっているときに限って、大切な用事を思い出したり、良いアイデアが浮かんで来たりして、つい、座禅を中断してメモりたくなる。歳とって記憶力がかなり悪くなって来ているので、今メモっておかないとまた忘れてしまうかも知れないなどと思う。心を中立にして鎮めていると、どうもそういった思考が生まれやすくなるようである。でもそういった思考も、雑念として退け、数息観に帰る。
特に、今やっている数息観を、どうやればもっと旨くできるようになるのかのアイデア、などという雑念もある。数息観を良くしようというその思考自体が、数息観を妨げる雑念となってしまうのだから厄介な話である。
筆者の場合、思考に没頭して数を数えるのをすっかり忘れてしまうというという場合よりも、思考しながらでもなんとなく数は器用に数えられていることの方が多いので、その分、思考は浅いが、数息と思考がある程度両立してしまい、それで、数を数えても思考があまり止められないのかもしれない。ときたま、心が澄み切ったようになり、雑念も湧かず、強い快感の中で数息観が進むこともあるが、それはごく稀である。
ネットをググると、今、欧米(やがて日本でも)で広く行われているマインドフルネス瞑想は、座禅の数息観よりも、上座部仏教(以前の言い方は「小乗仏教」)由来のヴィパッサナー(自己観察)瞑想と、その前段としてのサマタ瞑想の方が多く行われているそうだ。ヴィパッサナーは、ガウタマ・シッダールタが、悟りを開いて仏陀(「目覚めた人」のこと)になれたときにやった瞑想だそうだ。この瞑想は、自分の思考、感情、それに伴う身体の様々な状態を観察する瞑想法。自分の思考を自由に遊ばせ、その思考を少しも評価することなく、ただひたすら追っかけて観察し続ける。
筆者は最近、昔少し習った縁から数息観を基本に少しづつ瞑想を続けているが、いい加減にやっているせいか、それが何時になっても上達しなかった。