――その❹―コトと言葉――
座禅などの瞑想は、前項に書いた、きわめて不安定なコトとしてのこの自己に気づいて行く作業であるようだ。
禅宗では前述したように、「不立文字」(ふりゅうもんじ:言葉で言い表せない、瞑想の実践で得る直接感覚のこと)ということを言う。
「自己」に限らず、コトの本質そのものが、むしろ言語によっては語り出しえず、言語からは聞き取りえないところに潜んでいる。
西田幾多郎が「声なきものの声を聞く」のを自分の哲学の使命だとしたのも、まさしくその意味においてであっただろうと木村は言う。
人間の言語は、家族的な小さな集団からより幅広い人類集団同士の間でも通用するような、より正確にモノを同定できる方向に、必要に応じて発達し続けてきたのであろう。
おそらく、日本語のコトや、マウリ語のマナと同じようなモノ(「大物」など)の用例は、人類のより古い言語の反映だと思われる。
日本語で古くは、「事」と「言」は同意味と考えられて来たが、奈良〜平安頃から「言」は「言葉」に変わっていったと木村は言う。「言葉」とは、「事の端」という意味。
それは「言」で「事」を全部言い表せないということに気付いたということでもあり、同時に、「言」が、社会関係の大集団化とそれに伴う複雑化に伴い、さらにコト=事性を犠牲にしながら、対象としてのモノをより正確に言い表すための道具に変わっていったということでもあったと思われる。
言葉がモノを表すのに適した情報伝達手段であると言うときのモノとは、すでに見たように対象=客観のことであった。
これとは対照的に、コトは主観の側に、あるいは客観と主観の「あいだ」にある。コトは誰かの自己の経験を通してしか現れないからである。
客観的なモノとしての「落ちるリンゴ」に対して、「リンゴが落ちる」というコトは、誰かの主体が臨場して始めて立ち現れるような事態である。
しかし、例え言葉ではコトの端しか表せないにしても、言葉を通してコトを表そうとしてしまうのが、ホモ・ロクエンス(言葉を話すヒトの意)の宿命である。
木村や筆者のこのような論理展開も、禅宗の「不立文字」という言い回しも、言葉で表せないコトに、なんとか言葉というモノで肉迫しようとする矛盾であるが、その矛盾の中に、次々項で見るような共生関係も成り立つのである。