「実況中継」、つまり、現在の自分の行動や状態を言語化し続けるタイプのこの「ラベリング」こそ、マハシ式(日本テーラワーダ仏教協会式)瞑想の一番の特徴であるが、言語化することで、今現在の行動や状態が明確化(意識化)され、行動主体の側に対象化されて把握されやすくなる。
ラベリングは、臨床心理学の現場で、問題(悩みや葛藤など)を「外在化」(=対象化)するために、良く使われる手法である。
例えば、何か得体の知れない不安に悩まされ続けているクライアントに対しては、それに例えば「モヤモヤ君」といった、特定の名前=ラベルを、自分固有の感覚に基づいて主体的に付けさせる。すると、自分の中にあった「正体不明」の不安感が、そのラベルの中に対象化されて、つまり、一つの正体を獲て、それと距離を置いて対峙出来るようになる。即ち、自分の中で何かモヤモヤとして正体不明だったコトが、「モヤモヤ君」というラベルのモノに外在化したのである。外在化、つまり自分自身の内にあるのではなく、自身の外の問題となることによって、自己(自我)肯定感が損なわれずに済む、という効果も生まれる。
臨床心理学の「科学的」手法だけでなく、「非科学的」な祈祷や占いにも、同じようなラベリング=外在化の効果がある。自分の悩み事や葛藤が、自分(自我)の人間性のせいではなく、例えば「亡霊の呪い」や、「天中殺」といった運勢のせいにされることで、自我が救済されることになるのである。精神的な病気だけでなく、身体の病気も、精神的ストレスと密接な関係にあるので、アルカイック(古い)な社会で祈祷師や占い師が、医者同然か、あるいはそれ以上の信頼を受けていたのは、そのラベリングにそういった絶大な治療効果があったからである。
医療が科学になってからの近代以降でも、病気の診断名に、そのラベリング効果がそのまま受け継がれている。病名がハッキリすることで――それが本当に的確かどうかにも左右されるが――治療方針も定まり、クライアントに一種の安心感や、信仰(医学に対する信仰的信頼)と似たような心理学的効果が与えられるようになる。こういった視点から考えると、医学的診断名も、悪霊や天中殺も、ラベリング効果を持つという点では変わりがない。
昔の粉の風邪薬には、副作用から胃を守るための重曹がたくさん配合されていて、誰もがその味を記憶していたので、重曹だけ与えても風邪に効くという実験結果があって、これを偽薬(プラセボ)効果と言うのだが、これなども医学信仰のラベリング効果から派生したものだと言えよう。
ただし、こうしたラベリングには弊害もある。ラベル(レッテル)を貼ることで、常に流動し続けている現実を、固定的に決めつけてしまう傾向が生まれる。三次元的思考が得意な人間の頭脳は、固定的なモノ(色即是空の「色」)の中に本質があると、つい思い込んでしまうが、現実は無常(コト=現象)であり、この世の存在・事象で変わらないものは何一つない。全てが刻一刻と変化し続けているのだが、固定化されたラベリングが、その変化への適応を妨害する障壁にもなりかねないということである。
元々、言葉というもの自体がラベリング行為から生まれたものである。言葉とは、存在に、ある人類集団が共同主観的に名前を付けるという行為である。事物は、本質的には、人間の主観を離れて最初から客観的に存在しているのではなく、人間の名付ける行為であるラベリング、即ち、分別を通して生まれ、存在は名付けられて初めて人間の意識の対象物(客体)となるものである。
客体として対象化されるということは、それが対象化する主体と分離した存在になるということであるが、その分離が時代とともにどんどん進み、近代になってやがて世界全体が「科学的」に対象化=客体化され尽くして行くに従って、主体である人間と客体である自然との分離もその分だけ深まってきた。
本来、個々の生命(あるいは物質➡)は、自然の生態系システムの一部として、主体対主体として(内部観測的に)関係してきたし、アルカイックな社会の下では生命の一部である人間も、そうした主々図式で自然と関わって来たのであるが、時代の進行とともに自然と人間の溝が大きくなってきたのである。
自然を対象化して征服対象として捉えるようになった人間は、その度合いに応じて、自分の内奥の自然も征服物としてしまうことで失ってきたのである。そのきっかけが言葉であった。
言葉そのものが言わばラベリング(悪く言うと、レッテル貼り)であり、それによって世界の外在化(客体化)も始まる。またそれによって、流動する世界も固定化され始め、絶対的なもの同士として時間と空間が分離した、三次元的世界観が成立するようになる。
そういった対象を固定化してしまうようなラベリングと、テーラワーダ式の「ラベリング」とは、どこがどのように、同じで、また違うのか?
ラベリング=外在化=言語化という点では両者は同じであるが、以下の二点において違いがあると考えられる。
一点目は、何を外在化するのかという点。臨床心理学や祈祷など、今まで見てきたラベリングでは、自我が生み出した問題でも、自我から問題だけを抽出してそれを外在化する。そうすることで「自己肯定感」が得られるとする。つまり、自我自体は肯定しようとする。
それに対して、マハシ式のラベリングでは、自我自体が問題を作り出しているのだから、自我もろとも外在化しようとする。それは、逆に言うと、自我的自己から、それを観察する真の自己が外(在)化するということである。
二点目は、静止的か、動的かの違い。前者のラベリングは比較的固定的・静的だが、マハシ式のそれは、"実況中継"と言われるように、移ろいゆく行動や状態を、ノンストップで追いかけてその都度言語化していくという、動的な、無常を見るためのラベリングである。
筆者の「呼吸のせり上がり」も、もしかしたら従来、一般的には「息詰まる」と言われていた状態なのかもしれないが、「呼吸がせり上がる」と、自分により即した具体的な表現をした方が、直接体験的に自分にしっくりくるようになる。これがラベリングの効果である。これ以降、これが改善してまた違った感覚になれば、表現をまた変える必要が出てくかもしれない。