2023年5月2日
三枝明夫
思考を敵としたり、雑念として祓おうとしたりせず、ただ観察してやり過ごそうという筆者の今のやり方は、思考=妄想=雑念が出現しても、「出るに任せ、消えるに任せる」曹洞禅の「只管打坐」(しかんたざ)や臨済禅などの座禅のやり方の方に、むしろ近いのかもしれない。只管打坐では「観察」ということはあまり強調されてないようだが…。
筆者が昔、習ったのは臨済禅の初歩で曹洞禅の経験は全くないが、日本の坐禅、特に曹洞禅では、無思考の境地になるために頑張って思考を祓おうとしたりはしないようだ。思考を祓おうとするのも、自我の働きである思考の一種だと考えるからではないかと思う。
思考の渦に巻き込まれないようにするために、思考を止めるという目的を持って数を数えながら坐るのだが、それでもなお思考が湧いて来て、それに気付いたとしても、それを無理に祓おうとしない。気付けばそれで良い、ということであろう。
人は悟りや健康などの様々な動機=目的を持って、その手段として瞑想に入るが、坐禅ではその手段とその目的とを、その中で溶解(この溶解=溶融がしばしば「即」と表現されるものであろう)してしまって、手段としての座禅自体が目的となる。
論理学的に言うと、Aか非Aのどちらかだという排中律の論理=ロゴスの論理だけではではなく、そのロゴスの論理をも包摂して、その間の、Aでも非Aでもどちらでもあるような、あるいは、そのどちらでもないような、容中律の論理、即ち、(テトラ)レンマの論理がそこに垣間見える。テーラワーダ式のこの初心者向け(?)の瞑想では、(妄想的)思考を敵と見なすが、只管打坐では、敵とも味方とも見なさないで、ただ坐り続けると言うことが最初から重要なのである。
ただ、スマナサーラ長老は、他のところでは、こうも言っている。――「ヴィパッサナー瞑想には、変えていく力があるのですが、何かを目的にすると、逆にものすごく時間がかかります。それは人間の自我のせいなのです。何かこういうものを得たいと思ったら、それは逆に、遠い目的になってしまいます。」と。だからやはり、両者には同じ発想が流れていると言っていい。筆者の場合、鬱を克服する目的を持って、その手段として瞑想を始めたが、今のところ、そのお陰か?鬱にならずに済んでいたのだが、今はもはや、瞑想はその目的以上のものになっている。
マハシ式も、そう言いつつ、無我と無常を体感し省察するのがヴィパッサナー瞑想の「目的」となっている。無我と無常を十分に体得できたら、それは悟り意外のなにものでもない。
自然の摂理(「おのずから」)に逆らって、何かを意思(意志)的に獲得しようとしたり、いつでも自分の意思(意志)通りに事を運ぼうという「目的」を持つのは、それ自体が自我の働き。この辺、仏教の瞑想は、道教の「無為自然」と通じている。
「無為自然」とは、無理に何かを(行為=作為)しようと思わず、環界(自然)とともに、生命としての自己の中に、元からあった自然(「道」)に従うことだが、だったら何も、老子を読んでそれから学ぼうとしなくていいはずなのに、老子を読んでそれをわざわざ学ばなければならないのは、人間が築いて来た言語を基調とする文化に、反自然的な「狂気」(ホモ・デメンス➡)性が仕組まれているからであろう。瞑想による悟りとは、意識的に、この失われた無為=自然を取り戻すことであると思う。
「悟り」も、目的や手段といった計らいの思考とは離れた世界の中にあるのに、そこに、目的や手段を持ってわざわざ行為的に到達しなければならないという、矛盾した、まことにめんどうくさい存在が人間なのである。そして、(浄土宗系からすると)禅宗系を自力本願、浄土宗系を他力本願と言ったりするが、「他力」(=自然)に気付いて行くのが「自力」の瞑想だとも言える。
盤珪(ばんけい)禅師は、改まった座禅などせずとも、全ての人間の日常生活の中にすでに存在している「不生不滅」に気付いて行けばそれで良いと説く(この辺は非常に浄土宗系的だな)が、それがなかなかできないから、我々は、わざわざ座禅という作為を通してそれに気付こうとするのだ。
わざわざ作為を通して無為に気付く、作為即無為、無為即作為、自力即他力、他力即自力なのである。アァ、ややこしや。「自ら(みずかから)」という主体性=行為と、「自ずから(おのずから)」という無為が、即、つまり、溶融する場(西田幾多郎の主客合一の場所➡)。
それは、孫悟空が筋斗雲に乗り、世界の果の5本柱に小便をひっかけ、世界の王としての自分の称号を書いて来たつもりが、結局それは仏の五本指と其の掌中だったという「西遊記」の話のように、我々がどんなに行為的に「自ら(みずから)」あがいて格闘しているようであっても、俯瞰すれば、結局、作為も無為、即ち「自ずから(おのずから」でしかない、ということでもある。
只管打坐でも、日常の思考の渦を止めるための手段として瞑想があるのであろう。容中律は、排中律が排したその間を容認するものだが、排中律の二項対立そのものを否定するものではない。二者択一を、二者択一的に否定してしまえば、自らが排中律(二者択一)の罠に陥る。気をつけなければならないことは、何かを批判するとき、しばしば人はこの二元論(二項対立図式)に嵌ってしまっているので、二元論批判の場合も、一元論VS二元論という二元論の形になってしまいかねないということである。
また、スマナサーラ長老は、ネット(「嫌いな人への慈悲の瞑想」)で、「我々を攻撃したり意地悪したりする人も、やりたくてたまらずにやっているわけではないのです。……中略……『子供の時にいじめられた』と親を恨んだりする人もいますが、親も子供をいじめたくていじめたわけではないんですよ。本当にどうしようもなくやってしまったんですね。子供を捨てる親もいますが、捨てられても親を恨む必要はないのです。恨んでしまうと、永久に自分が苦しむだけです。」
この辺のことを考えると、「自ずから」にも「自ら」にも階層性があるように考えられる。嫌いな人を憎むという「おのずから」は、我執・自我的段階のそれであるが、「みずから」の「嫌いな人への慈悲の瞑想」で培った「おのずから」は、それより高次の「おのずから」だということである。
他人に悪意を持ったり、他人の嫌がることをしてしまうのは、我執のレベルでの「止むに止まれぬ」「おのずから」なのであるが、人間は瞑想的実践を通してより高次の「おのずから」が獲得できるようになるということである。
それはまた、時間の問題として「今を生きる」という問題でもある。つまり、目的とは、未来の時間であり、今を、その未来の時間である目的のための手段とするということは、今という時間を、未来の時間のために犠牲にしてしまうということだ。だから目的とその手段を溶融させるという一元論が、「今を生きる」ということになるのである。
この、「手段と目的」、「思考と無思考」といった二項問題は、二元論(二項対立)の問題として、煩悩と悟りを一元論的に扱う『大乗起信論』や『天台本覚論』の考え方(中沢新一『精霊の王』もそれを一つのテーマにしていたが)も取り上げながら、「主客」(主観・主体、あるいは、客観・客体)二元論という、近代哲学批判とも密接に関係しており、「ロゴス的知性」(言語的思考)を使って、自らを超える「レンマ的知性」(生命の根源的な直感的思考)を記述していくという、アクロバティックな芸当をしていく上で、とても重要な問題だと思われるので、この章でもまた考えて行くことになろう(➡未執筆)。