はじめに

 第一部 高次元の意識

                               三枝明夫

 

はじめに

 自分の「うつ」をなんとかしようと思って自己流の、瞑想の真似事をしだした。正確に言うと、数十年前、臨済宗系の座禅を習って挫折していた頃からの、ひさしぶりの瞑想の再開である(その間にも時たま、ストレスの多いときだけ、思い出したようにやっていたときもあったのだが……)。
 そしてさらに、ネットをググり、本を読み、自己観察の瞑想に出合うことで、うつと身体病悪化の、マイナス・スパイラルから旨く脱出できる道が見えて来たような気がする。
 でも筆者は、実践よりもどちらかと言うと、能書きの方が好きなタイプなので、そうして出会った文書に哲学的-学究的な展開があまりないのに物足りなさを感じていた。中沢新一の『レンマ学』に出会ったのはそうした折だった。
 彼からは以前、『精霊の王』で大変大きな影響を受けている。それを機に数冊、どれも興味深く読ませてもらったが、カイエ・ソバージュ・シリーズの『熊から王へ』あたりであまりピンと来なくなって、またその時期には他のテーマに関心が移っていたということもあって、いつの間にか彼の著作を追っかけなくなっていたので、久しぶりの「再会」であった。
 この本には、瞑想や自己観察のことはあまり書かれていないが、(大乗)仏教に関しては筆者との共通する認識をいくつも確認できた。だがそれ以上に、自分の知らない視点――特にいちばん苦手な数学的視点が満載されており、またそのこととも関係するが、深層心理学上でこれまで全く知らなかった、マテ・ブランコの「対称性」という概念が紹介されていたこともあって、この数年間でいちばんの、『精霊の王』に出会ったとき以上の衝撃を受けた。

 以前読んだ本(『受苦者のまなざし』)で、マルクス主義とウェーバーの研究者であった山之内靖が、17世紀の第一次革命以来の、「第二次科学革命」(論者によっては「第三次科学革命」とする人もあるが、哲学的なパラダイムチェンジという観点から見ると、その論にはあまり賛成できない)の到来を予言していたことがずっと頭の隅にあったが、この中沢の『レンマ学』は、まさにそういった世界観のパラダイムチェンジに関係する本だと感じたのである。
 (大乗)仏教を論ずる優れた文献はこれまで数多くあっただろうが、部分的にではなく全面的に、数学や物理学の視点で仏教思想を裏打ちしようとしているところに特に斬新さを感じた。
 一昔前だったらこういった展開は、一つ間違うと「疑似科学」だとか「トンデモ(本)」だとかと言う誹りを受けかねない方法だと思うが、最近はそういった、なんでも「トンデモ」と安易に決めつけてしまうような科学主義も少し影を潜めて来ているように感じている。これも転換期としての時代の流れかもしれない。
 以前ネットで、仏教思想と量子力学の物質観の通底性を語る仏教者の議論を「疑似科学」と断じる記事を読んだことがあるが、こうした科学主義には、背景に、人文科学と自然科学は分離していなければならないという二元論があると思う。こういった類の二元論も、近代的世界観の特徴であった、主観vs客観、時間vs空間などの、あらゆる二元論に通じている。『レンマ学』はまさに、こういった近代的二元論を超えていく、「第二次科学命」への世界観のパラダイムチェンジを提供してくれていると感じた。
 しかし人類学者でもある中沢自身によれば、それは、そういった歴史的規模の話ではなく、もっと壮大な人類史的規模の、「第三次形而上学革命」だと言うことになるのだが、その中沢自身の観方の中身は、本文の何処かでまた検討することにして、ここでは、筆者自身の科学革命の視点をもう少し説明しておこう。

 17世紀の第一次科学革命は、古代ギリシャのアリストテレス論理(古典論理)と呼ばれる二項対立の論理学を基礎とした、デカルトの二元論を思想的背骨として、つまり「ロゴスの論理」によって成立したものであったが、20〜21世紀の第二次科学革命は、この二元論をアクロバティックにひねって一元論化する、「レンマの論理」によって開かれるのだということが、この本を通して、筆者の頭の中では次第に具体化してきつつある。
 第一次科学革命が、ガリレオの宇宙論やニュートンの力学といった自然科学と、デカルト的主客二元論哲学とが、時代的・社会的無意識の中で結合して生まれたように、この第二次科学革命は、相対性理論や量子力学や、それ以降の「超弦理論(筆者はこれを殆ど理解できないまま書いているのだが)」、あるいは複雑系科学などの自然科学の展開で、徐々に潜在的に進んで来てはいたようだが、今やそういった自然科学や数学と結合できる哲学(!)・人文科学を意識的に打ち立て、それを社会の共同主観としていく中で実現されるであろう。
 そういった視点からすると、(大乗)仏教哲学やその深層心理学によって武装した中沢の『レンマ学』は、その狼炎である。
 この文章は、小さな火ではあるが、この中沢が高く掲げた狼炎への応火を意識しながら書き進めていきたいと思っている。ただ、『レンマ学』の中でさまざまに展開されている数学を、筆者がとても苦手にしているという点に問題がある。でも本文を書きながら、つけ刃的にではあるがその都度勉強して、本文ではそういった視点も少しは展開できるようにしていきたいとも思っている。
 『レンマ学』は、中沢本人の言うように、現在はまだ全く磨かれていない「原石」の段階だと思うが、こうして多くの人が筆者のように、この本に好意的な応火を寄せていけば、やがてそれは中沢の自我の領域を超えて、大きな炎として燃え上がり、あるいは磨かれて、さらに輝きを増すものになっていくだろう。

 この本では、「無意識」に関する論考は多いが、「意識」のそれが少ない。世間の常識に反し、無意識と呼ばれる心の場所にこそ、生命としての根源的な知性の、重要な要素が詰まっているからである。だが筆者は今、自己流の瞑想まがいを通して、意識という問題にこそ関心がある。特に、一般の意識にではなく、自己観察という意識に。中沢も引用しているが、マテ・ブランコは、三次元的思考では無意識に押し込まれてしまわざるを得ない対称的知性も、高次元的思考では意識化する可能性があることについて言及している。
 筆者は、この高次元の意識を、ここでは、自己観察意識の中に見出す試みをする。思考する一般的意識の中にではなく、「特殊」な自己観察意識、すなわち、自分の思考の一切の判断を停止(フッサール現象学で言うエポケー)して、思考に伴う感情や身体感覚をも同時に観察する意識の中にこそ見出して行こうという試みである。
 ブランコは、仏教について一言も触れていないが、彼の言う対称性の極まった場所である、「均質モード」や「不可分モード」や「基本的マトリックス」は、プラトンのコーラ、または(大乗)仏教で言う所の、無我−空−無自生−縁起のことであろう。尚、筆者は「大乗」とか「上座部」などの宗派性(セクト性)にはあまり囚われたくないと思う派である。対称性の極値を理想化する立場から、また、左翼経験から、セクト主義の弊害をつくづく感じているからである。
 筆者は、ここで主題とした自己観察意識を、マテ・ブランコの言う高次元の場所に置きながら、その場所で、「悟り」や、唯識派の言う「阿頼耶識」や、フッサールのエポケー(判断停止)による「超越論的主観(純粋意識)」の獲得ということや、「クラインの壺」的時空や、西田幾多郎の場所論に関連付けながら考えていきたいと思っている。
 中沢の著作で、『対称性人類学』の次作として『レンマ学』が書かれることになったのは、ある意味、必然の成り行きだったように思える。それらの本を彼が書いているというより、時代の無意識の力が、中沢新一という個性の力を借りて、それを書かせたように筆者には思えてならない。西田幾多郎流に言うなら、「(真の無の)場所」が、それを書かせたのである。その「場所行」のバスに、筆者も今、このホームページを通して乗り合わせよう。だから――途中、編集は重ねるが――基本はできるだけ自動筆記的に、連想の赴くままに書いていければと思っている。

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