第5回――イントラ・フェストゥムとコムニタス―その2――
⚫生きる主体と出会えない、自然科学的生物学的精神医学の限界――
精神病などの「狂気」を、ターナーのコムニタスとほぼ同義の“イントラ・フェストゥム”(祭のさなか)という概念を通して、表層的な症状論や病気の枠組を超えて、そこに積極的な意味を見出しながら横断的に見渡せたのは、木村敏が、患者を生きた主体として診る、人間学的な現象学的精神医学者であったからであろう。
木村(『生命のかたち/かたちの生命』)は、医学が身体医学である場合には、(自然)科学的であることはあまり問題にされないし、むしろそうあるべきだとされるが、こと「こころ」という、目に見えない、対象化(客体化)できない物事が研究課題となったとき、そういった自然科学的態度はたちまちのうちに限界に突き当たると述べる。とは言っても、精神医学の主流は、現在でもこの自然科学的精神医学=生物学的精神医学らしい。
自然科学的生物学的にこころ(精神)を見るということは、それを目に見える物質として、つまり、脳を中心とした、幾層もの物質的部品で構成された機械的身体として、こころを見えるものとして、つまり物質として見るということである。
精神の障害は、症状という目に見える病気の形、その症状を生む物質としての脳の、化学的・器質的障害に還元され、その治療は、脳という物質に化学的に作用する薬物療法が主要な方法となる。いわゆるタダモノ論的唯物論がそこに貫徹している。そしてその薬物療法が実際に、かなりの比重を占めて、症状の改善に役立っているのもまた確かである。
しかし症状という目に見える形は、病気そのものではなく、病気の表層である。自然科学的医学では、その表層にある症状が病気として捉えられ、それを排除することが治療だと信じられている。
症状それ自体が本来持つ、能動的行為的な、健康回復作用としての、生命的主体性といった側面など、自然科学的な対象(客体)でしかない患者の中に見出すことはできないのである。だから、生物学的医学の薬物療法は、必然的に対症療法に終始する。
さらに、このような生物学的精神医学から派生したものとして、症状を数量化して「計測」し、これに「緻密な統計学的処理を行って」「客観性」の仮面を被せようとする、計量的精神医学も存在する。不安や憂鬱な気分を、何段階かに分けた「評定尺度」で表そうとさえするという。ここまで来るともう、「自然科学的」というよりもむしろ「疑似科学的」であり、本人たちは自覚していないだろうが、そこでは笑劇のパロディーとしての「自然科学ごっこ」が演じられているのだ。
木村一流の「モノとコトの存在論的差異」(『時間と自己』)という別の表現方法で言い換えれば、自然科学的生物学的精神医学では、モノとしての病気は診れても、より根源的な存在様態である、コトとしての「こころ」の病気は見れない、ということになろう。
身体医学の場合は、自然科学的であることは問題にされないと先述したが、実はそうでもないのである。
心理的ストレスがからだの病気を生む心身症は広く知られているが、そればかりではなく、全ての身体病の8割がストレスが原因で生まれているという説もある。殆どの病気は、あたかも水圧でホースの弱い部分が破れて水が吹き出すように、溜まったストレスが吹き出したものだと言うのである。昔からから「病は気から」という諺もある。
ストレスが、こころにもからだにも同じように病気としての影響を及ぼすとしたら、こころとからだを截然と区別する一般常識から疑ってかからねばならないし、精神医学のみならず、身体医学でも、コトを診れない自然科学的医学には、同じように対症療法的な限界があるということになってくる。
ストレスは、精神的な問題だが、同時に身体的問題でもあり、何よりも社会的問題である。その全体を統合的に診ることが、コトを診るということでもある。
⚫人間の「生物学」的次元を捨象してしまう精神病理学――
またこうした自然科学的生物学的精神医学には「こころ」が欠如しているとして、精神医学の自然科学への従属を拒み、脳や身体の機能のことは度外視して、これを、ロゴス、つまり人間の言語的文化的レベル(のみ)で病気を捉えようとする精神医学に、精神病理学(力動的精神医学)がある。特に「現代思想」として一躍脚光を浴びた構造主義(哲学)のラカン派にその傾向が強い。しかし、このような精神病理学は、所詮、自然科学的精神医学のアンチテーゼでしかない。
人間はたしかに、動物のような自然的存在とは対蹠的な、言語的文化的的存在ではある。しかし同時に、動物と同じ生命の一部として、自然的存在でもある。
前回、前々回と、竹内芳郎の文化記号学的コムニタス論を見る中で、彼の「野獣の光学」の立場からの、言語−文化的存在へのホモ・サピエンス(賢い人)という捉え方を批判して、ホモ・デメンス(狂気の人)と見る見方を紹介してきた。
ホモ・サピエンスという視点から、人間の本能的側面を「悪」とする見方も出てくる。
欲望丸出しの人を見て、「まるで獣のようだ」と罵倒したりするのは、そういった考え方から来ている。
しかし、ホモ・デメンスという視点からすると、人間の欲望は、本能が失われたことによって生まれた無定形な衝動に過ぎず、それはむしろ本能と対蹠的なものである。例えば、人間の性欲は生殖という歯止めを失って暴走する。「悪」とされるものは、その無定形な人間的欲望の中にあるのであって、自然の精妙なコスモスに導かれた本能にあるのではない。
だから例えば仏教では、真の自然の回復が中心テーマとなっているのだと筆者は思う。そこで目指されているのは、本能からの離脱などでは決してなく、むしろ本能の回復であろう。
それが人間にとってとても難しいことだから、「悟り」とか「解脱」とか呼ばれている。本能(自然)のコスモスを失い、そのミメーシス(模倣)として築いた文化的コスモスの中心には、カオス、つまり、無定形な欲望の業火が煮えたぎっており、そこを乗り越えて行かなければ自然には辿り着けないからである。
サルトル流に言うなら(サルトルの意図に反する使い方だが)、人間は「自由へと呪われている」。自然のコスモスの取り戻しは、その無定形な欲望というサルトル的「呪われた自由」とは異次元の、「自ずから」(自主的)と「自ら」(あるがままに)が等しいような自由を、即かつ対自に、自然であることと文化的であることが同時であるようなところに獲得される自由としてあり、それがまた仏教的自由ということになろう。
コムニタスやイントラ・フェストゥムは、たとえアンチテーゼとしての限界を抱えていたとしても、どんなものであれ、その自由に接近しようとする一つの試みなのである。
人間の言語的文化的次元のみから出発し、生物学的次元を捨象してしまう精神病理学は、そういった人間の言語以前の自然、生命の次元を軽視するので、人間存在の半分としか格闘できないのである。
⚫「主体が主体と出会う」精神医学――
自然科学的生物学的精神医学から「こころ」を取り戻すための課題は、だから、人間の生物学的次元を捨象することにあるのではなく、生物学的次元に留まりながら、むしろそこを拠点として、自然科学的生物学とは異なる哲学構造の生物学を創り出ことの中にある。
「生きているものを生きているものとして――ということは対象化することでなく――研究する唯一可能な方法は、研究者自体が生きている主体として、同じく生きている主体である生きものと相互主体的に関わることである。」と木村(『生命のかたち/かたちの生命』)は言う。
現象学的人間学のヴァイツゼッカー(『ゲシュタルトクライス』)はそのことを「生物学への主体の導入」という。それは客観性を旨とする自然科学から一定の距離を置くということである。
先述の「自由」の議論では、仏教的自由とサルトル的自由との違いを見てきたが、ここで使われる主体もまた、意識的な「自主的・自律的」という意味や「実存的」という意味の主体とは異次元の、もっと無意識的な生命的次元の主体である。
前者の一般的に使われる主体(性)という言葉は、近代合理主義哲学のパラダイムによる「主客図式」――デカルト以来の、認識主体(主観)とその認識対象である客体(客観)を、相互に影響し合わない、独立した項として向かい合わせる、近代を象徴する認識図式を背景としたものである。
見るという行為によって、見られる対象は何ら影響を受けず、変化することなく、何時も客観的な姿をさらす。また、見る側も、見られる対象から何ら影響を受けず、他の対象を見るときと何時も同じように、透明な目を維持している。
例えば、殴るとかというような行為的な対象への関わりは、対象と影響し合うと思われているが、見る聞くなどの五感は、対象から独立していると考えられている。認識とは、そういった静的「行為?」だと考えられている。自然科学は、この認識図式を思想的基盤として発達してきたが、量子力学の観測の場では、観測者(主体・主観)と、観測対象の素粒子(客体・客観)が相互に干渉しあい、この近代主客図式が破綻するので、多分この論議と関係していると思うのだが、その話は長くなりそうなので止めておこう。
この認識図式に基づく自然科学的精神医学で、治療・研究主体である医者が出会う患者は、前項から見て来ている通り、脳を中心とした物質的存在としての客体(対象・客観)であった。
現象学的人間学はこの客体化された存在に主体を見出そうとする。そうすると、そこでは近代合理主義の主客図式―相互に影響し合わないような主体と客体という自然科学的構図は破綻する。
「生物学への主体の導入」とは、この近代合理主義の主客図式を乗り越え、診られる側の患者にも主体を導入するということであり、その二者の関係を、主体と主体との相互主体的関係、相互干渉的関係として捉えるということである
主客図式では、見る主体と見られる客体は互いに独立しており、見る見られる関わりは、相手から影響を受けることなく静的、一方向的に行われる。
ところが、診る側が主体として、能動的・行為的な、同じ主体的として患者に関わり始めると、診る側も診られる側もお互いに常に影響を受け、与えながら、その関わりの中で関係は双方向的・交替的に行われるようになる。
この立場は自然科学から距離を置くということであるが、話を少々大きくすると、それはただ17世紀からの第一次科学革命に対しての話であって、かえってそれは、現代静かに進行している科学自体のパラダイム・チェンジ、すなわち第ニ次科学革命の前哨なのかもしれない。中沢新一流に言えば、唯物論それ自体の革命ということになろう。
言語的思考ができる人間に限らず、全ての生命が主体性を持つ。人間に対して「お前は主体性がない」などという批判が向けられることがあるが、何も意識的に主体的にならずとも、生きていること自体がすでに主体的なのである。
だから生態系システムの中で、あるいは社会システムの中で生きる我々は、最初から、根底では、全てが全てと相互主体的に関わり合っているのである。
道元の言う、
仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』
の言う、「万法に証せらるる」ことによって忘れられるような「自己」のあり方こそ、そういった相互的主体な、「不立文字」(言語文化以前の生物学的主体性)であり、それがヴァイツゼッカーが導入するところの主体である。
同じような意味の言葉に、「無我」、「色即是空」、「縁起」などがある。どれも個別の「自我」とか「モノ」が独立自存してあるというのは、人間の文化によって生まれた錯覚に過ぎないということを言った言葉だ。
生物学的精神医学にしろ、精神分析学的精神病理学にしろ、そういった限界を抱えながらもそれぞれそれなりの成果を上げてきている。問題は、それらが何の交流もないままそれぞれを否定し合っている関係の不毛性である。生物学に主体を導入する現象学的精神医学は、そのアンチテーゼ的対立関係をアウフヘーベンする医学となろう。
⚫呪術とイントラ・フェストゥム――
呪術とイントラ・フェストゥムとの関係に注目している精神医学者に、渡辺哲夫(『祝祭性と狂気』他)がいる。
渡辺によると、精神科医にも、「統合失調症に共振しやすい人、躁鬱病に優れた理解を示す人、神経症の見立てと治療を得意とする人」などとそれぞれ個性があるが、渡辺は木村敏から、自分がイントラ・フェストム的資質の高い医者だと指摘されたという。
そのイントラ・フェストム的資質の高い渡辺の、『祝祭性と狂気』のテーマは、「巫病」と、憑霊のエクスタシー。沖縄のシャーマンであるユタが、一人前のユタになるために通過しなければならない、カンツツギヤ(神突き上げ)という、精神病理学的に見た場合の一種の「精神異常」(「狂気」)を、精神分析学派(フロイト派)の渡辺も、木村敏の現象学的精神医学の言う、医者という治療主体と患者という対象(客体)との関係ではない、「主体が主体に関わる」という、生きとし生ける者同士の共感的=相互主体的姿勢の下で考察していく。
それにしても、精神分析学派の渡辺の哲学と現象学派の木村の哲学がどのように対話、共鳴、交差しているというのか?未だ渡辺の著作を未読の今の段階では、何と言うこともできないが、今後そこら辺の解読も楽しみだ。
ユタになる条件としての巫病と、そしてそれを克服した後に得る憑霊というエクスタシーは、現象学的精神医学の知見を通して、やはり祝祭、イントラ・フェストゥム、つまりコムニタスというキーワードで関連付けて考えることができる。
南島にはユタの他に、伝統的・制度的な巫女としてのノロがいるが、これは動詞「呪る」(ノル)の、人を表す名詞形。「呪る」はその後、強調接頭辞(あるいは斎くの語幹)の「イ」を冠して「祈る」(イ・ノル)や、そこからマイナスの価値観を帯びて分離した「呪う」(ノロフ)に変化した。
「祈り」は、現代でも全ての宗教の普遍的儀礼であるが、人間の精神力で対象を変えることができるという、念力と同質の、「非科学的」な宗教信念に基いた行為であるが、この行為の土台には、南島のようなシャーマニズム(呪術)があることは、この南島~日本のこの語形変化から推測できる。
ターナーは、未開社会の儀礼や宗教的熱狂の中にコムニタスを見たが、渡辺は、その宗教の原点のとも言えるシャーマニズムの中に、イントラ・フェストムを見出している。
筆者は先述したように、渡辺についての著作はまだどれも読んでいないのだが、それでもプレリュードの最後に、人間とは何かという問題の核心に関わる問題の一つとして、どうしても彼の呪術のイントラ・フェストゥム性についての議論をあげておきたかった。
狩猟・採集社会のシェアリング的関係性、革命や暴動的決起への参加、アリョーシャの死を間近に感じた時のエクスタシー、癲癇のアウラ、全ての精神障害の症状のイントラ・フェストゥム的契機、飲酒による酩酊、ギャンブルへの耽溺、原点回帰的宗教運動、セックスのオルガスム、シャーマンの憑霊など、その全てに共通する一つの特徴は――他にも共通する特徴はあるだろうが――個別的自我を超えた、自他溶融感情である。道元の「万法に証せらるる」ような自己のあり方とそれは関係がある。ターナーの言うコムニタスの「謙虚さ」も、これに通ずる。
そこにはまた、何時も死と暴力が間近にある。死への恐怖は本能にもあるだろうが、自我の確立した文化的存在としての近代の人間のそれは、空虚への恐怖として、動物とはもとより、他の過去のどの時代とも違う格別なものなのであろう。人間の死への恐怖はおそらく、生命一般にはないこの自我意識と関係している。
第二回で、山内昶(『タブーの謎を解く』)が以下のように言っているのを見て来た。
コムニタスとは一つには自/他の区別の消滅を意味していた。したがって今ここで一挙に無秩序を理想の秩序として転換、樹立しようとすれば、他の多くの主体を一切扼殺する、弾圧と禁圧のグロテスクな独裁専制が逆に生じて来るだけだろう。実現された革命が理念された革命の夢想への裏切りでしかなかった歴史の皮肉は、ここに淵源していたのである。
死への恐怖と自我、革命による他我の否定と「グロテスクな独裁専制」など、――山内はここで、自我と他我を「主体」と呼んでいるが――死と暴力と自我と「主体」の、捻れた関係を解明するのも、当ホームページのこれからの大きな課題である。
ということでプレリュードとして、ターナーのコムニタス論を手がかりに、今の時点で思いつく、それに関連した議論を網羅的にあげて、本編の一応の見取り図を示して見た。しかし、本編を書き進むうちに、もっと他の、祝祭と関係している議論に出会っていくだろうし、そこから派生した別のテーマの議論にも首を突っ込みたくなっていくだろう。
本編の書き進め方はまだ決めていないか、次回はとりあえず、ターナーのコムニタス論についてもっと詳しく書き始めようと思っている。
よわい七十、いつボケが来るか、糖尿・高血圧が持病だからいつ脳卒中で倒れるか、筋肉も関節も悲鳴を上げ始めている。もう時間はあまりないと感じでいる。なのにどうしようもなくゆっくりとしか本が読めず、文章をなかなか書き進められないのが歯がゆく、とても焦ってはいるのだが、運命に従うしかない。