●自己流の瞑想へ❶――

⚫自己流の瞑想ヘ❶――
 でも上達しないままに、ヴィパッサナー瞑想を取り入れ、数息観をいつも邪魔だてするこの思考を、「雑念」などと決めつけて抑圧するのではなく、むしろ「喜んで」迎え入れ、積極的に観察することに意義を見出すことにした。抑圧されたものは、排水ホースに汲み上げられる水の圧力のように、どこか弱い部分を見つけて、そこをつき破っていつか噴き出すのではないかと思ったりするからである。それに、瞑想の時にやってくる思考には、何か理由があるかも知れないので、それも大切にしたいという思いがある。
 でも、本音を言うと、先述した、稀に旨くゆく数息観がいっちゃん気持ちイイ。上級者は、こういった澄み切った感覚の中で何時も瞑想しているのかもしれない。思考にふけっているときや、それに気付くときは、そういった時のようには心が澄み切ってくれない。
 それでもとにかく、欲張りな筆者は、どっちつかずになることも顧みず、思考を止めるための数息観をしながら、同時に思考を受け入れ、それを観察するような瞑想をすることにした。「自己観察瞑想」と言っても筆者のそれは、数息観のように師匠についてちゃんと学んだものではない。ネットをパパッとググって、それを自己流に解釈してやっているだけの話である。だからこの筆者流を、人には勧めようとは思わない。もしこれを読んでその気になった場合は、ちゃんとしたしかるべきところに行って学んで始めて欲しい。
 こういった、師の教える作法を「逸脱」した瞑想を、危険視する向きもあるのではないかと思う。筆者もそういったことに割と臆病な性格ではあったが、一か八かの老い先短い終活の一貫としての、自分の内発する宇宙的な力だけを頼りに取り組んでいるものなので、そんなことは今はもうどうでも良くなっている。だから、読者諸氏に学んでほしいところがあるとすれば、その具体的なやり方ではなく、その自信、内発する「本来の面目(本来の自己)への自信であり、人の話を謙虚に聞く耳と同時に、「犀の角」のように孤独にわが道を進む覚悟の方である。

 筆者の場合、観察されてしまう(気づかれてしまう)と、そこで思考は一端止まってしまって、観察しようにもそれ以上じっくり観察できなくなってしまう。身一つで思考したり、それを観察したりするのだから、それで同時にできないのだろうか。それとも、自己観察は一切の思考を排して行う無時間的な作業なので、思考のように時間を必要とせず、それで一瞬で終わってしまうからなのか……。
 観察で思考が止まってそれ以上思考が湧いて来なくなれば、「仕方ない」のでまた数息観に戻る。そうするうちにまた思考に陥るので、「これ幸いとばかり(?)」、それをまた観察する。そういった気持ちを持つことで、数息観がうまく行かないことへの落胆もなくなる。そういった発想の転換ができるのも、間に自己観察が入って、自分との距離が生まれているからであろう。
 筆者の瞑想においてはこのように、思考とその観察は交互的にやってくる。それでもその思考に伴う感情や体調は、思考が止まってもまだ残っている場合があるので、その時は、観察・被観察が身一つの中で同時的に行われることになる。こういった状態を脳科学的に説明すればどうなるのか知りたいものだ。

 思考が自己観察で止まるといっても、観察によってその瞬間止まるのであって、すでに完了した過去の思考を、わざわざ思い出しながら観察するようなことはしない。観察によって、思考の内容が鮮明に思い起こせるような場合もあるが、今思考していたことには気付けても、その内容については良く思い起こせない場合もあるので、そういう場合は無理に思い起こそうとはしない。何を思考していたか思い出そうとすることは、自己観察ではなく、思考だと思うからである。思い起こせない場合は、その思い起こせないという今をただ観察する。その忘れてしまっていた思考をふと思い出したら、思い出したのは今なのだから、今度はその今を観察する。そしてその観察も観察する。要するに自己観察とは、「今を生きる」一つの方法なのだ。
 自己観察していて、自分の足りない面に気づいたとしても、「あーすべきだった」とか、「あーしてはならなかった」とか、自分の言動を「ベキ・ネバ」と、一面的に批判・否定したりしないということが肝要である。また、逆の、自己正当化もしない。そういったプラスマイナスの価値判断から離れることが自己観察である。

 筆者の自己流の瞑想(まがい)は、風呂のぬるま湯で行うごく短時間のものであるが、この続きは第三章でまた書くことにしよう。編集を重ねるうちに、間に、沢山の能書きを挿みたくなったからである。

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