●観察と階層(二つの自己)

⚫観察と階層(2つの自己)――
 観察の観察は、合わせ鏡に映る鏡のような、観察の無限後退を生み出しそうだが、筆者の経験の上ではそういった事態には至っていない。自己観察の後、判断停止の自己観察がちゃんとできているかどうかの確認のために、1~2度観察を観察することはあるが。
 フォーク世代の筆者の若かりし頃の、三上寛『自己嫌悪のサンバ』の、「ジジケコ・ジジケコ・ジコケンオ」という、何か無限後退的な歌を思い出す。三上はその自己嫌悪をサンバ風に笑い飛ばし、明るくおどけて見せて、自己嫌悪の無限後退的マイナス・スパイラルへの転落から自己を防衛している。自己嫌悪を歌にして笑いとばすことで、そこに自分の思考や感情との距離が生まれている。これも一つの自己観察効果である。どんな形であろうと、自分のことを歌にするということは、「自己観察」(価値判断を停止した正しいそれではないにしても)を経なければできないことなので、例えいかに悲しく自己憐憫的に歌おうと、そこに一つの救いが生まれている。
 自己嫌悪することが多い人間は、自己嫌悪すると、今日もまた自己嫌悪かと、いつも自己嫌悪ばかりしてしているネガティブな自分がまた情けなくなって、さらに被せて自己嫌悪してしまうことがある。ネガティブの無限後退。自己嫌悪する自己と、その自己嫌悪する自己をまた自己嫌悪する自己が同一平面上にあるからそれは起きる。思考という同一地平で。(筆者の”うつ病“もこの「自己嫌悪」が大きなポイントになっていたようである。

 しかし、観察する自己と観察される自己との間では、「自己」という言葉に表される場所に於いては同一地平にあるとしても、思考と、無思考観察という点において、そこに階層が生まれる。それに伴って「自己」自身にも、思考する自己と、それを観察する自己、というふうに階層が生まれる。自己観察をまたさらに自己観察したとしても、それらが思考ではないことによってその間に階層は生まない。そして、それが思考の土俵のように無限後退するということもない。自己観察意識は一般の思考意識とは違う性格を持っている。どうやらそれは、意識の極点にある意識のようだ。
 自己にも二種類の自己がある。自己観察される思考的自己と、それを観察する無思考的自己というふうに。その「自己」は決して同じ自己ではない。観察される思考の自己は、自我とも言い換えられるだろう。そして観察する自己は、その自我から離脱している無我的自己、いわゆる「真の自己」(本来の面目)であると言えよう。
 ユングも「エゴ」と「セルフ」というふうに、自己を二つに分けて区別している。後者の「セルフ」(真の自己)は、ユングにとっては、無意識と意識が統合された(無意識が意識されるようになった)自己である。無思考の自己観察が進むと、次第に「反省的思考意識」が積み重ねられて、自分の無意識が見えてくるようになる。
 思考は個人によって千差万別であるが、自己観察は無思考にただ観るだけなのだから、誰がやっても全く同じであり、無個性の(ユングは逆にそれを「個性化」と言っているが)、非主体的な、かけがえのある行為である。自我は、優劣・善悪・美醜といった、二項対立的、非対称的、差別的な価値判断、すなわち分別する思考とともに生まれる。
 そういった思考意識から離れた自己観察意識には、ただ無心なる観察だけがある。この二つの自己(意識)がどういう関係にあるかについてが、この「番外編ー自己観察意識の場所」の中心テーマでもあるので、今後も様々な角度からこの問題に光をあてていくつもりである。

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