⚫嫌になったときの瞑想のつづき(「自己流の瞑想へ②」からのつづき)
「呼吸がせり上がる」という身体感覚は、通常の呼吸とは違う「苦しい」という感覚を伴う身体の働きなので、当然、「嫌になる」というネガティブな感情(心の感覚)も生むが、それと同じ地平で「観察」するとそのネガティブな感情がかえって増幅されてしまう。そういった「自己観察」は、いくら「メタ認知」だからと言って、無限後退的なそれであり、瞑想的自己観察だとは言えない。
そして、そうして増幅されていくネガティブな感情は、「せっかち」、「あわてんぼう」などという自分に対するネガティブな価値判断と同時的である。その中でも、時々大物ぶろうと「反動形成」(防衛機制の一種)してしまったりする身にとって、「小心者」という自己評価が湧いて来てしまうのが特に一番こたえる。
そういったネガティブな自己評価の思考と嫌な感情がセットになって湧いて来ると、どうしてもそれを忘れようとしたり、目をそらそうとしてしまうが、そうはせず、逆にそれをどこまでも冷静に無評価に観察できるようになるまで、つまり、もう一人の自己がその自己の外部に立てるようになるまで、ひたすら観察し続けるのである。
「ピンチはチャンス」という、発想をポジティブな側に逆転させるための魔法のような言葉があるが、ネガティブな自己評価や嫌な感情が湧いてきたら、そこにこそ、自分が成長していける、自己観察の一番のチャンスがやって来ていると、ポジティブに実感できるようになるのも、サティ=気付き(自覚)の大きな一つである。
「煩悩即菩提」の「即」は、このような観察を通して成し遂げられる。自分のそれが「煩悩」であることに気付かなければ「菩提」に至ることはない。そして、実際にこのあと見るように、その体験を直接することで、老い先短い筆者も一つ、大きく成長できたと思う。