第2章 コトとしての生命、コトとしての意識
(3)コトとしての生命
⚫木村敏のモノ↔コト論について――
この章は、木村敏(『時間と自己』)の「モノ↔コト」論の立場に立って生命
と意識について考えて見ようと思っているが、最近ネットをググってみたら、氏が2021年にすでに他界されていたことを知った。
氏の著作からは何十年来教えを受けて来たので、まずは氏へ、先生としての弔意を示すことから始めよう。
廣松渉(『事的世界観への前哨』他)も、この「モノ↔コト」論を展開している。
また最近では、郡司ペギオ幸夫(『群は意識を持つ』)も、生物の群と意識の問題でこのモノ・コト論を展開している。
しかしここでは、筆者自身の再学習の意味も込めて、木村のモノ↔コト論の概略を、自己流の解釈を交えながらだから、少し長くなってしまうとは思うが、振り返って行こうと思っている。
廣松渉のそれは、ここで木村の論旨を補う形で必要に応じて触れるかもしれない。
さらに郡司のそれについては、「コトとしての意識」(➦)のところで、群と意識の問題を、複雑系科学や非線形科学との関係の中で見て行くことになるのではないかと思っている。
――その❶基本的視座――
モノに対するコトという言い方で、微妙ではあるが、決定的な「存在論的差異」を言い表すという習慣は、欧米にはなく、日本語独特の用法だと木村はいう。
「存在論的差異」は、ハイデガーが、「存在者」と「存在」の差異を論ずる際に用いた概念のようである。
この場合の存在者の「者」は、人に限定されてはおらず、日本語の「物」と「者」との両方にまたがる、木村敏流の「モノ」のことであろう。
もう一方の「存在」とは、「存在者が『存在するということ』は一体どういう”こと”なのか?」と問うときに使うような、木村流に言うところの”こと”(コト)のことである。
木村の「モノ↔コト」論は、このハイデガー現象学の存在論を下敷きにして、日本語のモノとコトに添って展開されていく。
例をあげると、「落ちるリンゴ」が「リンゴ」というモノを表し、「リンゴが落ちる」が「落ちる」というコトを表す。
筆者は、問題をわかりやすくするためにとりあえず、この場合のモノは、言わば空間的・物質的存在を表し、コトの方はその時々のモノの現象(事象、状態)を表す、というふうに、とりあえずは整理して始めていこうと思う。
こういった言い方をすると、現象であるコトよりも、モノのほうがより本質的だという誤解を生みかねないが、読み進むうちに、やがてそれが逆であるということに気付いていただけるのではないかと思う。
現象(事象、状態)は、常に変化し続けている。
それは、常に変化し続けている環界(他者)と、常に関係し続けているので、それ自身も常に変化し続けており、また逆に、それ自身が環界を常に変化させ続けている。
この関係と、関係によって起き続ける変化を本質とするのが、コトである。
一方、モノのほうは、そういった流動的、関係的な現象・状態を、一瞬のうちに凍結させて切り取り、関係から自立した存在として見る見方=認識によって生まれる。
だから、コトを動画に喩えれば、モノは写真に喩えられる。
実在は動画のように常に移ろいでいるのに、我々の等身大の時間の日常感覚では、それが写真のように切り取られ、世界がそうした固定的なモノの集合として捉えられている。
例えば、我々人間の生物学的な等身大の時間スケールにおいて、目の前のアルミの灰皿を一つのモノとして認識しているが、その鉱石であるボーキサイトが地殻変動でできる過程や、それが掘削され精錬され鋳型で灰皿に加工される過程、更には使い古されゴミとして廃棄され別のアルミ製品として再生される過程を、数分間の出来事であるような超マクロな時間スケールの感覚を持てたなら、灰皿はその過程の一瞬の出来事に過ぎず、固定的なモノとして認識できなくなってしまうだろう。
また、モノを「空間的・物質的」だと言ったばかりだが、実はそれは物質だけに留まらない。
例えば、「空間」や「時間」といった非物質的な抽象的な概念でも、名詞化されて主語になるものは、全てモノとなる。
形容詞「速い(というコト)」が「速さ」という名詞になると、主語的になり、かつ、どのぐらいの速さか?という計量的対象にもなり、そういうふうに、動詞や形容詞が名詞化され、主語や対象にされた途端にコトがモノに変わってしまうのである。
さらに、話が少しややこしくなってしまうが、そういった、形容詞の「速い」というコトと、名詞の「速さ」というモノを比較して、それを理論的に対比して対象化しょうとする、こういった考察作業さえもが、コトのモノ化の作業となってしまう。
つまり理論化≒対象化しようとする作業は全て、コトのモノ化の作業なのである。
コトとは何か?という、木村や筆者の問いに対するこのような記述自体が、コトのモノ化の作業である。そして、筆者のこのホームページの作業全体が、このようなコトのモノ化の作業であるとも言える。
では、こういった作業を通して、コトに接近することは全く不可能なのだろうか?
実はそういった作業が、コトとモノの共生関係を生み出そうとする懸命な作業であることは、少し後で見ることになる(➦)。
このモノとコトの共生は、言葉や絵画や音楽や芝居や映画といったツール(=モノ)を使ってコトに肉迫する中で生まれる。
そういったツールを使った優れた表現ほど、他者にコトを感じ取らすことが出来るのである。
でもここでまず断っておきたいのだが、木村敏の対象化=モノ化というモノ観には、欧米とだけ比較して事足れりとして来た、明治以降の伝統的な日本文化論の限界というものも感じさせられる。
というのも、日本語のモノという言い方には、「物悲しい、」「大物」、「ものもらい」、「物々しい」、「物部」(もののべ→「物」を制御する部民という意味?)といった例があるように、はっきりと対象化できるようなものだけでなく、モノとコトの境界にあるような、マオリ族などオーストロネシア語系の、何か得体の知れない神秘的な力を持つ「対象」、つまり、「対象化できないような対象」を表す、「マナ」とも共通する使い方があるからだ。
日本語のこの「もの:物:者」は、非常に古い時代(旧石器時代?縄文時代?弥生時代?)に、このオーストロネシア語系のマナが、人の移動とともに日本列島に移入してきたのだという説もある。
この説を読んだとき、パッとと頭に浮かんできたイメージは、岡正雄(『異人その他』)にある、藁のような植物のスカートをまとった南島(ミクロネシアを言う場合と、鹿児島以南の奄美・沖縄諸島を言う場合がある)や、秋田のナマハゲなどの来訪神文化。
でもこの話は、重要だとは思うが、この項で述べようとする主題からは逸れてしまうので、いつかまた別のところで問題にすることにして、とりあえずは木村敏的モノ観に沿って話を進めて行くことにしよう。