「ベキ・ネバ」思考の中には、本当は「シタイ」(欲望)なのに、さも義務のように言う場合もあるが、筆者の、息がせり上がるようなそれには、他人に良く思われたいという「シタイ」(欲望)と、本当はあまり「シタクナイ」(義務・当為)が、そこに隠れている。でもその当為が、内面の底から湧き上がる全きの欲望になるような時空もある。
自他が溶融する、儀礼や革命や宗教や戦争のような祝祭時空では、そういった、本当はあまり「シタクナイ」のにする自己犠牲も、自我が後景化し、ベキ・ネバ(義務や当為)の地平から、内発的な欲望の「シタイ」に転換することがある。そういった自他溶融関係は、家族関係や親友関係、アルカイックな少人数共同体の日常の中でもある程度見られるが、社会が、部族や「民族」国家といった大集団になって行くに従って、日常では次第に建前化し、欲望から義務や当為に転換して行く。国家!特にそれが、自然な自他溶融関係を奪う要因であろう。世界宗教や、戦争の肥大化や革命という非日常は、そういった社会の大集団化、国家‐文明に対応して生まれている。
ニホンミツバチは、多数寄り集まって蜂球を作り、天敵のスズメバチを熱殺し、巣内の何万匹の仲間の命を守る。そのときには必ず、十匹〜二十匹のミツバチがスズメバチに噛み殺され、犠牲になるという。そこに、社会的昆虫たるミツバチの個体同士の、自他溶融関係が良く表現されている。後で見るが、そこに生命(=物質)の本質の一面も露わになっている(➡)。
人間の場合、言語を生み、世界を分別する言語的思考(ロゴス的思考)を発達させ、それにつれて自他の分別もだんだんと進むようになってからも、人間の根底には、この日本ミツバチのような自他溶融の祝祭的欲望が潜んでおり(この欲望をV・ターナーは「コムニタス」と名付けた➡)、分別された時空の様々な境界(非日常)においてそれが噴出する。
だから、「ベキ・ネバ」の克服は、第一義的には社会=文明の変革の問題だと思うが、元左翼だった筆者は今、仏教の伝統に基づいて、個人的にそれを追及するようになってきている。
しかし、仏陀が無我の教えを説いて――大乗仏教は、無我というより、多分に梵我一如的ではあるが――もう二千五百年が経つのに、まだ、一向に人々の我執が消えないどころか、かえって酷くなっている感もある。しかし考えようによっては、まだ、たったの二千五百年しか経っていないのである。
では、政治-社会革命運動の方がコムニタスの理想を実現してきたかと言うと、古代ローマの「スパルタクスの反乱」(第三次奴隷戦争)から数えて現代の革命‐民族解放運動に至るまで、二千年以上の時間が経っているが、その時々に掲げた理想を未だ実現して来れないでいる。悠久の物質‐宇宙‐生命の歴史から見れば、人間の、たかだか二千年~一万年の文明の歴史はとても短い。
元労働運動の分野におけるマルクス主義的な左翼活動家であった筆者が、政治革命ではなく個人的な瞑想に今救いを求めているのは、自分の個人的な「鬱」から解放されたいとい思いだけでなく、フランス革命後の「勝者」ロベスピエールのギロチン独裁から始まって、レーニン‐トロツキーの10月革命の独裁、その後の同様の革命の末路の多くが、革命が掲げた理想を自らが裏切り、「勝利」の後に反動政治に陥ったという歴史の中に、共通する何かの欠陥を感じ取ってきたからでもある。
その「共通する何か」の「法則」を探すには、今日的には、「ビッグデータ」に元づく克明な社会学的(あるいは、「社会経済物理学」的?)な再検討が必要であると思っているが、今とりあえず(「痕跡学」的に)思いついたことを書けば、それはこの「ベキ・ネバ」問題とも関係があるだろうということである。
革命家は、皆真面目だから、その心の内奥に、一般人より多い沢山の「ベキ・ネバ」を沈潜させているので、やがてそこに生まれる怒りが他者に向かって爆発し、やがて当初の敵にだけでなく、かつて仲間であった他者にも、内ゲバや粛清という形で向けるようになり、そこから独裁が生まれるのではないかと思う。
「シタイ」に――これをフロイト的に言えば――「生の欲望」が孕まれているとすれば、「ベキ・ネバ」には、「死の欲望」が孕まれていると言える。
ただ個人的な営みに見える瞑想だが、決してそうばかりではないだろう。
古池に飛び込む蛙が起こす波紋のように、個人的に我執を克服しようとする人の数を少しづつ増やすことも、本当の意味での社会革命の土台になっていくかもしれない。そしてそれがやがて、社会の片隅で地道に進んでいる様々な共同体的的運動と結びつきを持って行くようになって行くかもしれない。