⚫自己観察意識の数論――
数学が苦手だということは再三言って来ているが、後に見る中沢新一やマテ・ブランコに習って、思考の外にあるこの自己観察を数字で表現して見るなら、それは「0」(=空)ということになると思う。「色即是空」の「空」である。あるいは、「無我」「無心」の「無」である。こういうことを言うと、「空」と「無」は違うぞ!という当然のお叱りが予想されるが、そのことは後で検討し直すことにして、ここではとりあえずスルーして先に進もう。
演算にも使えるような数としての0は、7世紀、インドの数学者によって発明されたそうだが、0=「空」(シューニャ)というその名からして、仏教などの伝統的思想を土壌にして生まれた数学的概念だということが想像される。
1から始まる0以外の自然数(有の数、厳密に言うと、0.0……1などの1より小さな有理数もそこに入れて考える)と演算できるので、その点ではそれらの数と同一平面(内部)にあるとも言えるが、それらの数が足したり引いたり乗じたりする度に数を変化させて行くのに対して、0は、0自身をいくら足しても乗じても引いても増えたり減ったりしない。言わば、自然数や有理数が「色」であるがゆえに「無常」であるのに対して、0はその外部にある「空」、つまり「常住涅槃(涅槃寂静)」の数。
そういった意味で0は、自然数や有理数と共に計算できるという点では、その内部にあると言えるが、上記のように、無常ではなく常住(涅槃)の数字だという点ではその外部にあると言える。この内部でもあり同時に外部でもあるような「クラインの壷」のような性格は、前項でも見た、位相幾何学(トポロジー)用語で「向きつけ不可能性」(表から裏、内から外のような向きを持たせることが不可能と言意味か?)と呼ぶそうだ。また、後でマテ・ブランコの対称性について考察することになるが、そこで重要になる数学概念に、無限がある。この無限と0にもクラインの壺的関係を感じている。
「無限の情報とは数学的にはゼロと同じある|かわたろう|note」というサイトさんによると、横線を引いて右端と左端をそれぞれ1と0として、その線を無限に向けて分割していくと、その極値では点の大きさは0になる。いわゆる0次元の特異点というやつだ。そのことから「無限の情報とは数学的にはゼロと同じある」という話になる。0.00000……の極限の大きさの無限小の値と、点の数の無限大の数値と0は、、つまり、0と無限(無限大、無限小)は、アクロバティックにつながっているということになる。
また、西田幾多郎は「場所の論理」を展開する中で、「無の場所」ということを言っている。自己観察の0性は、どうもそれとも関係がありそうなので、次項でそれを検討してみる(➡)。
さらに、この自己観察と0とに共通する性格は、果たして単なるアナロジー(相似、比喩)の限定的範囲にあるものなのだろうか?それともそれ以上の、ホモロジー(相同、同一)的なものなのだろうか?という問題も感じている。それについて今はまだ詳しく展開できる準備はないが、筆者は後者だと今は想像(➡)している。
中沢の『レンマ学』を読むと、数字-数学にはそれ自体に、それぞれ哲学的な神秘が埋め込まれているように感じられてくる。なんか「数秘学」みたいになってきたが.…..。数字-数学には、瓦礫の下から微かな光を漏らす宝石のような、やがてその哲学的意味が解明されることを待つベンヤミン的黙示禄的救済の期待が感じられてくる。そう考えると、筆者のような文化系人間にも、数学が、俄然、興味深く感じられるようになってきて、苦手を克服して少しは勉強したくなってはくる。でも、実際立ち向かってみると、やっぱりとてもシンドい。でも、シンドいほど壁が厚いほど、それを克服したときの主体的飛躍も大きいことも沢山経験してきているので、この先頑張って少しは勉強してみようと思っている。