⚫「大乗」的な?ヴィパッサナー瞑想の伝道――

 スマナサーラ長老と共に最初にこのマハシ式瞑想の協会を立ち上げ、初代会長になり、その後、パオ式(パオ森林僧院)の比丘として修行・活動した鈴木一生氏(故人)によると、そのパオ式こそ、より伝統的、本格的なヴィパッサナー瞑想だという。
 パオ式では、サマタ(サマディ=集中)瞑想を、第一禅から第四禅まで段階を踏んで徹底してやってから、やっとヴィパッサナー瞑想に移る。しかしそれは、700人の修行者がいても年に4〜5人しか進めない狭き門だという。
 「ヴィパッサナーは身体の要素である地・水・火・風のエネルギーの一つひとつを取り出し、そのエネルギーが生まれ、また消滅する様を、無常・苦・無我と照らし合わせて観察していく」ものだという。
 この出家修行者のための本格的な瞑想修行から見ると、マハシ式は、サマタとヴィパッサナーを同時に行うという在家向きの瞑想、ということになるが(言わば上座部瞑想の、在家向き「ダイジェスト版」と言ったところか?)、鈴木氏の経験によると、サマタで集中力がちゃんと養えてないと、悟りや解脱に至るのは難しいと言う。(「アーナ・パーナ瞑想 ヴィパッサナーについて」(鈴木一生さん講演会―より)。
 しかし、このスマナサーラ長老のマハシ式や、十日間合宿でサマタ瞑想を五日間、ヴィパッサナー瞑想を五日間、それぞれ行うという(これも言わば「ダイジェスト版」であろう)というゴエンカ氏式や、それらから学んだマインドフルネス瞑想が、世界で広まって来ていることこそが、むしろ尊いと、筆者は思う。
 かつて大乗仏教は、上座部仏教を在家大衆の救いを無視しているという意味で「小乗仏教」(小さな乗り物の教え)と蔑称してきたが、彼らの在家向きのこうした瞑想の伝道の有り方こそ、その哲学問題は別にして、「大乗」という名にふさわしいのではないかと思う。筆者のような迷妄の衆生が、現に今、その自己観察という瞑想方法に救われようとしているのだから。
 思想的には、縁起-無自性-空という大乗の立場を拠り所としている筆者にとって、スマナサーラ長老はじめ、上座部系の指導者たちの(科学的)因果論の強調は少し気になるところだが、言語化できる省察(反省的意識)は、その因果論によって表現するほうが断然分かり易い。言語が、基本的に因果論的に構成されているものだからである。
 因果と縁起の関係については、この章の中心テーマであるところの、意識問題を考える中でも少し考えて行こうと思っている()。その際でも、宗派主義的にならないように、上座部仏教と大乗仏教の哲学の違いを比較して、ことさら問題とするようなことはしないつもりである。
 
 先述したように、トラウマ体質(気質?)でもあるので、今後、そこらあたりも瞑想的=直接体験的な観察➾省察の成果を綴って行けたらと思っている。
 最近、自分の自己観察もまだまだだと感じるようになって来たが、それはとりもなおさず、この後の訓練次第では、自分もまだまだ上達できると感じるようになって来た、ということでもある。
 この章では、しかし、このあと、今まで「一般的思考意識」だの、「自己観察意識」だの「反省的思考意識(省察)」だのと、無前提で使用してきた「意識」という概念そのものについて、少し考えてみることにしよう。
 その前に、まず、意識とともにある(?)「生命」からである

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