2023年5月1日
三枝明夫
著者のスリランカ仏教出身のスマナサーラ長老は、日本テーラワーダ仏教協会の指導者で、長老の教えるヴィパッサナーは、「ラベリング」というミャンマー式のやり方を特徴とする瞑想。しかし、ミャンマーの上座部仏教の伝統の上で、このラベリングによる瞑想は、マハシ・セヤドー(長老)によって、20世紀になってから新たに編み出された手法だそうである。
スマナサーラ長老はこの本で、初心者のために、言葉優しく噛んで含めるように親切に瞑想のやり方を教えてくれている。その教え方も、一つ一つ何故そうするのかの理由がなるたけ分かりやすく親切に解説されている。
「不立文字」と言い、難解な禅問答などで、言語的合理性を混乱させ、言語的理解をわざと拒むような傾向の強い日本の坐禅より、この点でも、後で見る「ラベリング」のやり方においても、因果関係、合理的な思考・言語をとても重視している感が強いが、悟りを、その言語を超えて、瞑想で直接体験して獲得するしか他に方法がないとしていたり、悟りを目的としながら悟りを目的としない瞑想を勧めるという「矛盾」を持つ点では両者とも、そして後で少し触れるゴエンカ氏式でも皆同じである。
そのやり方は、大きく別けて二つ。その一つが「いつくしみの瞑想」で、もう一つがヴィパッサナー瞑想(知恵の瞑想)。ここでは、「いつくしみの瞑想」は省略して、ヴィパッサナー瞑想だけを見て行くことにする。
その初歩的ヴィパッサナー瞑想でも、さらに五つのやり方が紹介されている。①「立つ瞑想」、②「歩く瞑想」、③「座る瞑想」」、④「日常の瞑想」(特に⑤「嫌なことがあったときの瞑想」)がそれである。
そしてヴィパッサナー瞑想全体で、以下の三つの必要条件となるやり方が提示されている。それが、❶ノンストップの実況中継、❷スローモーション、➌体の感覚を感じること。
❶の「実況中継」は、例えば、体のサティ(気づき)として、「歩く瞑想」をしている時、自分の身体行動を、「立ちます。手をあげます。右足をあげます。運びます。おろします。右足をあげます………」などと、逐一、できる限りの超スローモーションの動きをしながら、その動きをハッキリとした言葉にして、心の中で間断なく唱えながら進めていく。
この言語化こそが、第三者的に言うところの「ラベリング」と呼ばれる手法だ。しかし、長老自身はあくまでもそれを、「実況中継」と呼んでいる。
それをノンストップでやるのが――だから「実況中継」なのである――普通のラベリングとの際立った違いだが、その間、自己観察に集中して思考=雑念の入るスキを作らないための方法だ。この辺、「サマタ」瞑想だとされる坐禅の「数息観」や、超越瞑想のマントラ(呪文。祝詞や「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」などを唱えるのも同じ効果を持つ)と、理由は似ている。後で見るように、この日本のこの教会の初代会長だった鈴木一生氏は、これを、サマタ(集中して無心になる瞑想)とヴィパッサナーを同時に行う瞑想だとしている。
ラベリングから気が逸れて、いつの間にか思考に陥ってしまっていることに気がついた時は、これを敵と見なし、「雑念、雑念、雑念」と三回「ラベリング」することを勧めている。いわば思考(妄想)祓いのラベリングだ。
ここら辺は、筆者の現在のやり方や考え方とは違っているようだ。思考=雑念を敵と見なして排除するという考え方には、どうも違和感を持ってしまう。
「自己流の瞑想ヘ①」で書いたように、思考が湧いて来たら、「待ってました?」とばかりにそれを「歓迎?」(思考の自己観察のチャンス到来なので)して、価値判断を停止してそれを観察する。そうすると、価値判断を停止することによって自ずとその思考は消えてしまう。「思考」が価値判断だからである。自己観察によって思考が消えるとするのはテーラワーダ式でも同じだが。
観察されると、自ずと瞬間的に思考がストップしてしまうのは、すでに書いたようにきっと、同じ自己の働きがクラインの壺のような通路を辿って、思考する意識の内側(価値判断の世界)から、それを価値判断しない観察意識という、その外側へと移動してしまうからであろうと筆者は考えている。そして筆者の場合、一旦自己の外に出たもう一人の自己も、今はまだまたすぐに同じルートを通って、雑念する内側の自己のもとに帰って来てしまうのだが。
筆者は、数息観と、その間に湧いて来る雑念の自己観察を、同時にやるという、自己流の瞑想をしていることをすでに書いて来たが、雑念の自己観察をあまりクドクドとやっていると、数息観がおろそかになってしまうので、それをサッと終わらせるために、ジャンル分けをしてそれに名前付け(ラベリング)している。
例えば、瞑想のやり方について色々思考した時には「瞑想事」、このホームページの訂正・追加などのアイデアは「編集事」(瞑想事はだいたい編集事に変化していく)、それをきっかけにしていつの間にか想像が過去や未来に飛んでしまった時には「妄想事」(迷想事)、何を思考していたか忘れてしまった時には「忘れ事」などと一言で一括りにして、それで思考を観察する作業を一瞬で終わらせ、直ぐに数息観に帰れるようにしている。その際、ラベリングの意味の的確性などは問題ではない。クドクド考えないで、とにかく思考を一瞬で終わるような観察とラベリングこそが肝要なのだ、と、こういう形でラベリングを活用させてもらっている。