――その❷―モノの世界――

 

――その❷―モノの世界――


 空間はモノで満ちている。モノが全くないような空間でも、そこには真空というモノがある、と木村は言う。
 現代物理学では、真空は単に何も無い空間なのではなく、粒子と反粒子が目まぐるしく対生成・対消滅を繰り返し、その度にエネルギーが増えたり減ったりしているような、ゆらぐ物質としての空間なのだ、と言われている。
 しかし、木村の言う真空というモノは、そういった物質的ではないような、本当に何もない空間であっても該当する。
 名詞化されることによって、主語化や対象化が可能になった存在の全てがモノだからである。

 また、モノは、特に、見るということの対象になるもののことであるとも言う。
 そのような対象は、自分の外部空間にあるものだけでなく、自分の内部に目を向けたところにも現れるてくるとする。
 自意識のように、自分の内部に、あたかも外部空間を見るのと同じように「目を向けて」、自分を意識できるのが人間の意識の特徴だとされているが、その時、そのもう一人の高次の自分に見降ろされた低次の自分は、対象化=モノ化された自分となる。
 しかし、瞑想の際の自己観察意識は、どうも、「低次」の自分を単純にモノ化して見るような、こうした自意識ではなさそうなので、その構造を位相空間であるクラインの壺に喩えて来たが()この問題も、ここでのテーマから外れるので後回しにしよう()。

 前述のように、モノは見る(観察する)対象である。
 モノの最小単位とされる素粒子(現在、素粒子は一次元のヒモだという説が有力だが)のように、電子顕微鏡でも見えない、限りなく0に近いような微小なモノでも、モノとして探求する限り、それは我々の生物学的な目の機能や観察方法の(限界?)の問題であって、原理的にはやはり「見る対象」に属するモノなのである。
 見るためには、見られるモノとの距離が必要であるというようなことが良く言われるが、その「距離」といったことにも、モノが空間的概念であることが示されている。空間がなければ、距離も生まれないからである。
 現代物理学では、量子もつれなどの現象の解釈上、時間も空間も幻想であるとする説があるが、それはモノが幻想であると言うことを言っているのと等しく、モノの科学である従来からの物理学自身の自己否定につながる。

 この「見る」といった働きの対象が、また客観でもある。
 木村の言うこの客観としてのモノとは、デカルトが理論付けたとされる、近代主客二元論図式における客観のことである。
 すなわち、主観(主体)と客観(客体)が相互に実体として独立し合っていて、双方から影響を受けないでいられるという認識の下での客観である。
 この相互に自立した主客という認識は、やがて、量子というミクロな世界において、観察という主観(主体的行為)が、客観(客体)である被観察体に影響を与えるという、量子力学の不確定性原理のコペンハーゲン解釈において否定されることになる。

 この二元論は、他の様々な二元論とも関係している。
 例えば、やがてアインシュタインの相対論の時空一体論によって否定されてしまうことになる、ニュートンの古典力学による絶対空間vs絶対時間であるとか、他にも、精神vs物質とか、心vs身体とかといった、現代人の直感となっているあらゆる二元論と密接に関係している。
 このあらゆる二元論を、そしてその中でも特に、相互対立的なものとして哲学で措定されてきた、唯心論vs唯物論とか、観念論vs唯物論といった二元論を、様々な切り口から乗り越えて行くことが、筆者のこの論考全体を通した課題となっている。
 
 また、客観であるということは、対象としての名前が付けられているということである。
 主客二元論図式で対象化され客観化されたモノは、名指されたモノのことでもある。
 言葉で名前が付けられる=モノ化されるためには、前述のように、それが、時間的空間的に切り取られ、自律した個物として固定化されていなければならない。

 大乗仏教では、そのような個物=「色」は、幻想=「空」に過ぎない(「色即是空」:しきそくぜくう)と言われる。
 それをこのモノ↔コト論に添って言うと、モノは本当は存在しないのだ、ということになる。
 言い換えると、存在の本質は「色」(個物=モノ)の側にはなく(それを「無自性」あるいは「無我」とも言う)、本質は、縦横無尽に相即相入して関係し合っている「縁起」という関係の側にあるということである。そのことを「空」とも言ったのである。
 前述のような現代物理学のモノの科学としての自己否定は、この縁起論に近づきつつあると言える。

 ところが、我々人間の日常感覚では、それぞれの固定化されて認識されたモノである個物=「色」の方に本質があり――それを「自性」という――世界は、その自性を持つ個物の寄り集まりで出来ていて、それが事後的に関係し合っている、というふうに捉えられている。
 そのように認識された世界はちょうど、一つの機械になぞえることができる。機械を構成する部品が個物である。
 宇宙はそうした世界として捉えられるが、生物学や医学でもいまだ、多細胞で構成されている人体や、細胞内小器官の結合体である単細胞生物も、すべてそうした固定的部品の結合体として捉えられている。
 そうした固定的な部品の結合体である機械観からは、自ら進化や退化といった変化をし続けていく存在の無常性を捉えることができない。
 機械を進化させるためには人間の頭脳や技術という外部者が必要になるように、機械体として捉えられたモノの進化には、神という外部者が必要になるからである。

 しかし、現代物理学や複雑系科学、非線形科学では、実在する宇宙も物質も、そこから生まれてくる生命やその意識も、神という超自然的な外部者を必要とせず、量子ゆらぎ(真空ゆらぎ)によって、その内部から(自ら)自己組織化されてくる存在だというふうに捉えられている。

 我々は、多様な生物を目の当たりにして、例えばそれを、キリギリスだとかネコだとかサルだとかという名前で呼ぶ。
 しかしそれは人間の等身大の時間スケールの中で生まれる感覚に基づいた概念である。
 『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達雄)では、体が大きくゆっくり動くゾウは、心拍数などの生体リズムや代謝もゆっくりで寿命もその分長いが、体がゾウの千分の一と小さく速く動く寿命の短いネズミは、生体リズムや代謝もその分速い。

 これは、ゾウとネズミとの間に、それぞれ違ったスケールの時間が流れていると言うことであり、そこには、生命にとって時間の長さは、本当は相対的なものだということが表わされている。
 それを、人間の等身大の共同主観の尺度から見ると、象が動きが遅かったり長生きしたり、ネズミが動きが早かったり早死にしたりしているように見えるだけである。
 この宇宙に、生命の主体性に関係なく、客観的・絶対的な時間が流れているというのは、人間という存在の共同主観に過ぎないと言うことである。
 時間があるという考えそのものが人間の共同主観であろうが、それについてはまた後で考えよう()。

 人間の日常感覚では、キリギリスもネコもサルも進化せず、ずっとそのままの種の状態を維持しているように感じられているが、それは、人間の時間感覚が、人間の等身大のスケールに伴って生まれているせいである。
 それは、丸い大地があたかも水平に感じられるのと同じこと。自分の体に比べてマクロな地球の半径があまりにも大きいので水平に見えるのと同じことなのだ。

 もし我々が、地球大の悠久なスパンの時間感覚を持てなら、どの種の生物達も、パラパラ漫画のように、姿形を変えながら進化していくのを目の当たりにできるようにだろう。
 その時は、キリギリスもネコもサルも、パラパラ漫画の1ページのような、ほんの一瞬の存在だと感じられるに違いない。

 サルがサルと名指されるためには、留まることのない悠久な生命の進化、サルからヒトヘと進化した無常の過程から、サルの期間だけがパラパラ漫画の1ページとして切り取られ、固定化される必要がある。
 サルに限らず、全ての名指されたモノ(「色即是空」の「色」)、このようにして、人間の等身大のスケールの時間認識によって固定化されたものであり、人間の認識(心)抜きに、最初から客観的にあったものなのではないということである。

 心(認識)とモノ(対象的存在)は、一つの問題のコインの裏表のような関係に過ぎないということについて、後で「汎心論」や、その範疇に入る仏教の「一心論」や、「物質主義」哲学を考える項()で、観念論vs唯物論、あるいは存在論vs認識論といった二元論の止揚の問題として、もっと詳しく見て行きたいと思っている。

 なお、「進化」に関しては以下、一言付け加えておかなければならない。
 上記のような、RNA〜単細胞生物〜多細胞生物〜最後に人間という、「高等化」の過程が進化だという見方が一般的であろうが、それも確かに進化の一つのあり方には違いないだろうが、それを進化の全てだとしてしまうのは、いかにも人間中心主義的な捉え方であろう。

 生命を、個々の生物の集合としてではなく、一つのシステムの全体として捉える立場に立てば、むしろ、どんな環境にも生命それ自体が生き残れるようにと、遺伝子のエラー(=ゆらぎ)の力で多様化して来たことにこそ進化の真骨頂があり、多様化=環境適応こそがこのシステムの進化の基本戦略であるということに気付けるだろう。

 かつて野坂昭如が(筆者のまだ若い頃)、「どんな人間にも必ず終わりが来る。どんな世の中にも必ず終わりが来る」(『終末のタンゴ』)と歌っていたのが、『平家物語』の「諸行無常」のくだりのようで妙に心に残ったものだ。
 現生人類(ホモ・サピエンス)とて、人類700万年の歴史の中で、たったの20万年かそこらの存在にすぎないが、先行する人類が全て絶滅したのだから、ホモ・サピエンス(賢い人の意)とは呼ばれてはいても、その実、生命性の基底をなすレンマ的知性を見失い彷徨っているホモ・デメンス(錯乱した人の意)かもしれず、いずれ核戦争かなんかで絶滅してしまうかもしれない。
 それとも、バクテリアのような原始的生命や、生きた化石と呼ばれるオオサンショウウオのように、生命の多様性の一角を占め続ける存在としてずっと生き残り続けていけるのだろうか?

 

   前へ  次へ  目次へ