第1回「第1章-生と死の儀礼における分類の次元」-その①―ターナーの研究姿勢

第1回-「第1章-生と死の儀礼における分類の次元」

   の①ターナーの研究姿勢――


⚫ンデンブ族の内側からの研究――

 この章と次の章ではまだ、第三章以降に出てくる〈リミナリティ〉や〈コムニタス〉という概念は提示されない。
 だが、現地人のインフォーマント(情報提供者)の説明に沿った、イソマ儀礼などの、その構成要素である祝詞の歌や身振りや穴や薬、またはその時間と空間に関する、二年半に渡るフィールドワークの象徴解釈で、その基礎となるような綿密な研究が提示されている。

 その研究の対象となったのは、中央アフリカ・ザンビア北西部の、狩猟と農耕を営み、母系制社会でありながら夫方居住婚の中で暮らすンデンブ族の儀礼である。その種々の儀礼のうち、この章では、不妊や流産や早産や、幼児の繰り返される死といった、生殖−子孫を残していく能力の毀損の治療としての〈イソマ儀礼〉が取り上げられる。
 この章は、ニューヨーク・ロチェスター大学のモルガン記念講演の内容をまとめたものであるが、学生時代のターナーにとっての「道しるべとなる極北の導きの星」であったそのモルガンの、「全ての未開宗教はグロテスクであり、ある程度まで理解しがたいものである」という言葉の部分が、まず問題にされることになる。
 何故なら、そういった「未開」宗教ヘの偏見につながるような研究姿勢の乗り越えこそが、彼のアフリカでのフィールドワークの基本姿勢として重要だったのであり、「コムニタス」といった新しい概念は、こういった基本姿勢があったからこそ導き出されたといっても過言ではないからである。

 モルガンは、今では人類学の研究にとって欠かせない手法となっているフィールドワークを最初に本格的に取り入れた学者として、あるいは「未開」社会の親族や政治に対して鋭い注意力を向けた学者として、「アメリカ文化人類学の父」と称される程の業績を上げた人である。エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』が、このモルガンの研究を下敷にしていることは周知の通りである。
 しかし、そのモルガンの上記のような「未開」宗教ヘの偏見は、欧米人によって担われていた当時(19世紀)の人類学が、いまだ自国中心主義的、あるいは欧米人中心主義的なものだったことの一端を示していよう。そういった「未開」社会ヘの偏見(軽蔑)という当時の人類学の限界は、キリスト教の神父や牧師の「未開」社会ヘの派遣とセットになっていて、そういったものが、欧米帝国主義の侵略を正当化する、思想的尖兵の役割を担った側面もあったと思われる。
 ターナーの研究は、こういった「未開」社会に対する、欧米という外部からの、距離のある対象化としてではなく、「未開」社会内部に視点を移して行われた、後代の松野孝一郎や郡司ペギオ幸夫らなら、それに「内部観測」という概念を当てはめるかもしれないような研究方法が、このときすでにターナーによって、具体的なものとして、意識的に行われていたと言うべきであろう。言葉を替えれば、ンデンブ族を、他者としてではなく、自己として観測しようとしたということだ。

 ターナーが赴任した現地の研究所では、宗教儀礼に関する研究はあまり行われてはいなかった。ターナー自身も最初のうちは「宗教音痴」で、もっぱら、親族、村落構造、結婚と離婚、家族や生活費、部族と村落の政治、農事歴などといったことについての莫大な統計資料蒐集にあたっていた。それらの資料も、後の研究に決して無駄にはならなかったであろうが、そういった研究だけでは、「自分はいつも外側から中を覗いているのに過ぎないのではないか、という不安」を拭えなかったのである。
 ターナーが、そういった不安を解消できるようになったのは、何よりも宗教儀礼、それも現地人の解釈にそってそれを研究するようになったからである。
 20世紀になって、モルガンのような人類学の19世紀的限界を超えて、多くの人類学者が「未開」の宗教研究に携わるようになったのは、「宗教的信念や行動は、人々が、そのような諸関係について、また、彼らが働きかける自然環境や社会環境について、どのように考え、感じているかを理解するための決定的な鍵と見られるようになった」からだと、ターナーは考える。
 ターナーが宗教研究の道に踏み入って感じたことは、「現地人の文化の一部においてすらも、それが実際にいかなるものであろかを知ろうとするならば、宗教儀礼についての自分の偏見を克服し、その調査を始めなければならない」ということであった。

 ターナーはまた人類学者として、人類学の全体を概観するようなことはせず、「できる限り、自分を宗教の諸相の経験主義的な研究に限定し、とくに、アフリカの宗教儀礼の特質のいくつかを絵描き出すことに努力」した。
 さらに、人類学者の多くが、現地人の神話を分析して、そこからまず宇宙論を抽出し、そこに見つけ出した構造のモデルを例証するものとして特定の儀礼に進む。
 しかし、ターナーの場合は――ンデンブ族の場合は神話が少なく、それに反比例して儀礼の象徴ヘの解釈が豊富だというやむを得ない事情があったからだとは言え――それとは逆に、まず儀礼にまつわる象徴という、言わば「積み木」(儀礼の構成部分)の一つ一つの研究から始めたのである。ンデンブ族の「儀礼の過程」は、神話生成の原点、まさにそこに生まれつつある神話の原型だと言えよう。

 ンデンフ族自身の説明で特に重要な部分は、この部族なりの語源学にあった。ターナーは、ンデンブ族自身の語源学を、象徴の一つ一つに即し学んでいく。ンデンブ族自身の説明に耳を傾け続けることで、彼らの内側の光景、つまり、ンデンフ族自身が自分たちの儀礼についてどのように感じ、考えているかを発見しようと試みたのである。
 ターナーの方法論は、多くの人類学者の多くがどちらかと言えば普遍から特殊へと進む帰納法的な研究姿勢が強かったのに対して、どちらかと言えば特殊(具体)から普遍へと進む演繹法的なものであったとも言えよう。そういった後者のような現場主義的方法論こそがいつも、既成の常識を覆し、学問にパラダイムチェンジを生んで来たのだと思う。

 レヴィ=ストロースは、『贈与論』(モース)の序文で、「未開」社会(マオリ族)の贈与交換という経済活動の謎を解く鍵を、モースが現地人が「ハウ」と呼ぶ呪力に求めたことを批判した。レヴィ=ストロースによれば、「ハウ」とは、人間精神が物事を理解できないときに作り出す、空虚な概念(ゼロ記号)に過ぎず、人類学者はそういった現地人のインフォーマントの空虚な説明に騙されず、その背後にある普遍的な社会的構造を見抜かなければならないと述べた。
 しかし、構造主義者が言う人類史全般に渡る二項対立的な普遍的構造など、所詮、近代合理主義の時代精神に拘束された視点による「普遍性」に過ぎなかったことの一部が、「リミナリティ−コムニタス」という概念を検討・発展させる中で、やがて明らかとなっていくだろう。

 確かに彼は、「未開」の「野生の思考」は、文明人が考えるような遅れた野蛮なものではなく、その中にも高度に洗練された思考を特徴づける諸特性、例えば、相同・対立・相関・変換などが含まれていると述べて、近代という時代の一つの特徴であるヨーロッパ中心主義との決別を宣言してはいる。
 しかし、「ハウ」という概念に対するこの言及は、現地のインフォーマントの説明にどこまでも寄り添って考えて行こうとしたターナーの内在的姿勢とは、ある意味対極をなす、近代合理主義科学に特徴的な外在的な――外部観測的な――研究姿勢だと言えよう。そういう観点からだけで言うと、構造主義は、近代合理主義の極点に生まれていると言えるのではないだろうか。食わず嫌いで、彼のものをはじめ、構造主義に関する書物を殆ど読んでいなくてこういう批判をするのは、とても不遜なことかもしれないが。
 人の行動の動因は、「野生の思考」の内にも発見される理性や合理主義的精神にだけあるのではない。それと同じくらい情念もその動因となる。そのことが、ターナーの儀礼とコムニタスの研究で明らかになって行くだろう。

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