第2回「第1章―生と死の儀礼における分類の次元」―その②-イソマ儀礼

第2回「第1章-生と死の儀礼における分類の次元」

   ―その②ーイソマ儀礼

⚫イソマ儀礼――

 イソマ儀礼は、既婚女性の不妊や流産や早産や障害児の出産、そして幼児の繰り返される死といった、生殖力、より広く言うと子孫繁栄能力毀損の病気の治療として、病人である妻とその夫が受ける儀礼である。イソマ儀礼は、ンデンブ族が執り行う全体の儀礼の包含関係の階層から言うと、「女の儀礼」あるいは「出産の儀礼」の一つとして、さらに「祖先の亡霊の儀礼」のうちに含まれるという。
 既婚女性特有の、イソマ儀礼の対象となるこのような不幸は、儀礼熟練者のインフォーマント(情報提供者)の説明によると、「母系親族の女性の亡霊を、肝から忘却してしまった」ために、怒ったその亡霊によって、生殖力を停められて起きるのだという。

 女性の出自ということを部族社会の基本とする母系制下で、同時に夫方居住婚という制度も合わせ持つンデンブ族のような社会では、その二つの制度の間の矛盾による葛藤が生まれやすい(※)。

※それは人間の性の普遍的な二つの原理、すなわち、女性原理と男性原理の、特殊アフリカ的な環境の中での、超歴史的な対立,葛藤なのだろうか?
 考古学に見ればどんな人類史にも変動の歴史がある。「未開」社会にも文明社会程のスピードはなくても、その時代毎の様々な内的葛藤=矛盾がエンジンとなって、常に変動を繰り返してきたに違いない。そして、文明社会との接触も、地球に文明が発生して以来何度も生まれ、その外的影響力も、変動を促すエンジンとなったであろう。
 ンデンブ族の社会で、母系制下での夫方居住婚という、わざわざ葛藤が生まれやすいような制度が何故行われているのか?という疑問に答えようとすると、高群逸枝の『母系制の研究』に影響を受けている筆者としては、どうしてもそれを、弁証法的な移行期の一つの特殊な歴史段階では?という発想を持つ。
 つまり、ある段階の原始共同体に伴う母系制から、侵略戦争遂行能力のある部族国家という初期国家的な歴史段階になって、男性の戦争遂行能力に伴う父系的なものが台頭しようとしているのではないか?
 首長制を伴う部族国家から、皇統譜のために父系制を必要とする初期王権ヘの移行過程という、一つの歴史段階として、男性原理の台頭としての夫方居住婚が、母系制に接ぎ木される形で生まれてきているのではないかという想像である。
 しかし、「母系制から父系制ヘの移行」というような単純な19世紀的な「進化論」は、現代の文化人類学では実証性がないものとして評判はかんばしくないようだし、ターナーもそういったことには触れていないし、今回の主要なテーマからも逸れる。この問題については、いずれまた勉強し直して考えるときが来るであろう。


⚫ラカン「象徴界」と儀礼の象徴――

 女性出自によって構成される母系的紐帯と、夫方居住婚(父系制の芽生え?)の間に生まれる葛藤を、ンデンブ族という「未開」社会の人達にとってイメージしやすい象徴が、「母系親族の怒った亡霊」であった。「亡霊(祖霊)」や「精霊」ヘの恐怖や信仰は、「未開」社会のどこでも、原始共同体的紐帯の結着剤の役目を果たしているようだ。

 ターナーは、ンデンブ族の儀礼において、この他にも様々な象徴に注目している。彼の研究が「象徴人類学」と呼ばれる所以である。彼はこの章では、「象徴、記号、信号と言う概念の違いについての長い議論」を避けているので、筆者もここではその辺の話に深入りするのは止して置くが、この象徴について、ターナーの議論に先立って、少しだけ考えて見ておくことにしよう。

 構造主義精神分析のラカンは、人間の世界を「現実界」、「想像界」、「象徴界」の三つに分類したが、こういう区分けの仕方についてはラカンに同意できる。彼の言う「現実界」は、精神病を生むような不安に満ちたカオスな世界。人間がその不安から逃れるために築いたのが、「想像界」(イメージの世界)を基礎とした、「象徴界」という、人間独自の文化コスモスであろう。
 構造主義は歴史を捨象しがちであるが、人間は、何らかの理由で本能のコスモスを半分失ったことで、カオスの真只中で、ホモ・デメンス(狂気の人)=「現実界」として出発したが、葛藤の末、自然(本能)のコスモスの代償として、弁証法的に獲得したのが「象徴界」であろう。
 我々文字社会の「文明」人は、こうした無文字社会の「未開」の儀礼の、象徴同士のダイナミックな交差の中に、その人類の「象徴界」の獲得過程の初期段階と言えるものを、手に取るように目撃できるのではないだろうか。
 文字はどんな文字でも、もともとは物事を象徴する図形、すなわち象形文字であったが、ンデンブ族の儀礼の象徴は、その象形文字誕生の一歩手前で活動していると言える。

 
⚫怨念の象徴としての女性の亡霊――

 文化人類学の研究対象となった「未開」の、どの母系制社会でも、多かれ少なかれ、「女性的なるもの」と「男性的なるもの」との矛盾・葛藤があったようだが――その社会で、葛藤は、何も、女性的なるものと男性的なるものとの間だけにあるのではないが―――それぞれの社会で、その解決の仕方は異なっていた。
 例えば、トロブリアンド島民(※)のあいだには、青年期に達すると、母の親族がいる村へ行って住まねばならぬという規則があり、それがこの矛盾の葛藤を和らげていたが、ンデンフ族にはこういった規則がないために、子供の居住地を巡って、母方と父方で、表面には出にくい、鬱積した感情の争いが強く横たわっていた。

※ニューギニア島の東部沖にある環礁からなる島嶼群で、マリノフスキーやレヴィ=ストロースの研究で有名になった。

 ンデンブ族は、中央アフリカの中の母系社会の中でも最も離婚率が高く、それもこの二つの規範の矛盾の一つの解決法となっていたが、イソマは、ンデンブ族自身によって、不妊などの病気がその矛盾として顕在化したものとして捉えられ、そういった結婚関係の破綻にいたらない形での、その葛藤の解決のために行われる儀礼となっている。
 不妊などの病気で、女性を苦しめている母系親族の女性の亡霊は、二つの規範の矛盾、その矛盾によって生まれる鬱積した裏感情(※)をイメージしやすくする象徴でもあり、その解決のために母系集団の紐帯を思い起こさせ、母系親族の義務に目覚めさせる象徴でもあった。

※日本語の「ウラ」は、「表面から隠された―」という意味を持ち、「裏」、「恨み」、「羨ましい」、「うら悲しい」、「うらぶれた」、「うら若い」、「浦」などのウラとして、共通する意味を持っている。
 ンデンブ族のような「未開」社会では、このような「ウラみ(恨み)」、すなわち裏感情は、怒った亡霊とも結びついているが、この亡霊を呼び出すために、水源で隠れて行われるとされる「妖術」(アフリカの他の文化圏の「黒魔術」とも通底しているであろう)の呪いとも結びついている。


⚫目に見えないものから、目に見えるものへ――

 儀礼の構成分子(積み木)である数々の象徴を通して、目に見えない象徴である不吉な亡霊のイメージが、さらに、目に見える具体的なものに連続的に変換され――ターナーはそれを「啓示の原理」と呼んでいる。()――儀礼の参加者たちに、その義務に次々と目覚めさせて行き、それを通して当面の社会的矛盾が解消され、さらにそれを通して、彼女の生殖力も蘇えるのである。社会制度がガラリと変わり、この型の矛盾が本質的にやわらがない限り、この社会特有のこの儀礼は続いて行くのであろう。

※キリスト教は啓示宗教だと言われ、啓示は神により通常では知りえない真理が開示されることを言うが、神の子キリストも一つの啓示だと言える。そして、直ぐ後に見る、仮面の男「ムヴウェンイ」など、儀礼を通して見えないものを目に見えるものに転換して行くンデンブ族の象徴行為全てが、一つの啓示だと言える。さらに、そもそも禁止されていた偶像も、その啓示の一つだと言える。


 「イソマ」という語には、ンデンブ族自身の語源学から言うと、“抜け出す”という意味があり、それは流産や早産という病気の状態を指していると同時に、“場所あるいは拘束から抜け出すこと”という意味から、母系親族ヘの帰属意識を忘却しているという考え方とも関連があり、さらにそれを恨んで病気-死を与える亡霊をも意味する。
 「イソマ」という語は、そういった多義的な意味を背負っているが、次回詳しく見るように、多義性・両義性は象徴の特徴であり、このような儀礼の象徴化の過程から生み出されたであろう、アルカイックな言葉の特徴でもあった。

 儀礼の構成要素としての数々の象徴は、ンデンブ族の儀礼では「チジキジル」と呼ばれるが、それは彼らの天職である狩猟用語から来ており、既知の領域と未知の領域を結ぶ目印、つまりそれを抽象化して言えば、日常の生活領域という、構造を持つ秩序づけられたものと、構造を持たぬ無秩序(カオス)のものとを結ぶ、または、感覚によって捉えることのできる既知の現象世界と、未知の、見ることのできない亡霊の世界とを結ぶ、道標と言う意味を持った。 その道標、目印となる象徴によって、人々は、隠れているが故に危険なもの―無定形で神秘的で危険なもの、つまりカオスを、感覚的に目に見える具体的なものに、つまり文化のコスモスに転換し、理解可能にして、手懐ける方法を見つけ出すのである。


⚫ムヴウェンイの仮面−男らしさを象徴する亡霊と女性の病気――

 イソマ儀礼における代表的な亡霊は、ムヴウェンイである。女性を不妊などの病気に至らしめた亡霊は、母系親族の女の亡霊だったが、割礼の儀礼に現れる、ムヴウェンイ、じいさん、首長(※)とも呼ばれる、男性を象徴する亡霊と習合して登場する。

※割礼儀礼の歌で歌われる「じいさん(祖父さん)」とも呼ばれる首長は、同時に「チンポは乾いている」とも歌われているように、成熟した男性の象徴である。その首長は奴隷を所有しており、階級制≒差別制の象徴でもあろう。
 母系制とか、父系制とかの単形出自制は、部族社会存立の必要条件とされているが、部族社会存立のためには男性の首長の存在が必要条件なのかは、まだ筆者は勉強できていない。
 しかし、階級制≒差別制の誕生としての奴隷制を持つ部族社会が、どのようにして誕生したのか?それが初期国家ヘとどのように連続して行くのか?という辺が、〈国家廃絶〉を望む筆者の立場では、特に関心のあるところである。

 少年の割礼は、成熟した男になるための一つの儀礼。ムヴウェンイのつける仮面は、日本の来訪神(マレビト=祖霊)――それが日本の能面など、世界の仮面劇の原義でもあろうし、日本の仮面は、岡正雄によればメラネシアの仮面の伝播だと言うことになるが――と、性格が良く似ている。また、腰蓑の樹脂の繊維は女性の生殖力を締め上げるものとして、あるいは鈴は男の仕事の狩猟を表すアイテムとして(※)それぞれ成熟した男らしさの象徴である。

※鈴は、日本では、風鈴に魔除けの意味があるように、霊を呼び出したり、鎮魂したりする呪術の重要なアイテムなので、ンデンブ族でも、恐らくそういった呪術的意味もあるアイテムではないかと思う。

 ムヴウェンイは、それに触れると流産すると女性に恐れられており、その恐怖を通して、男らしさの象徴でありながら、夫方居住婚で忘却された女性親族を思い起こさせるための母系制の象徴でもあり、象徴はこのように複雑に交差していて、「男性性=父系制」「女性性=母系制」といった、平板で単純な二項対立の図式に還元することはできない。


⚫「妖術」の意味――
 
 イソマ儀礼は、病気の相談を受けた占い師の指示で、母系親族の村の近くの小川の水源の傍にある、大ネズミか大アリクイのどちらかの巣穴のところで行われる。
 ンデンブ族によると、これらの動物は、自分たちの穴を掘った後で、それを塞いでしまう、つまり、その穴は、女性の生殖の力を隠してしまった、イソマの亡霊の出現を示すための象徴(目印)なのである。
 儀礼集団の熟練者の呪医は、この隠れ穴のふさがれた入り口を開けて、それにより象徴的に、彼女に生殖の力を返してやり、彼女がその子を丈夫に育てられるようにする。

 この大ネズミや大アリクイは、女性を病気に陥れている。これらの動物を妖術師にしたのは、夫の側の親族に偏った結婚生活に恨みを持つ、女性親族の側の妖術師であると信じられている。
 彼(彼女)は、生殖力の象徴である女性親族の村の近くの小川の水源の辺の、この動物の巣穴の傍らに薬を埋め、呪いを晶出し、そこを知らずに通りかかった女性を病気にする。
 妖術師の呪いの晶出で、大ネズミか大アリクイも妖術師になり、その巣穴という空間が病気の遡源となり、また、生きている者の呪いが、そこに女性親族の女性の亡霊やムヴウェンイの亡霊という、死んだ者を呼び出すと考えられている。

 しかし、ターナーの印象では、実際にそういった呪いの晶出が行われたかどうかは疑わしいという。ということは、呪いが実際にあったかどうかより、イソマ儀礼が、そういった呪いに象徴されるような女性親族の恨みをなだめる作業であることを示すことがより大切だということであろう。
 また、呪いをかける彼(彼女)について、ターナーは、「妖術らしいところもあり、したがって”悪い“ものであるという感じもあるが、同時に、病人が過去や現在の母系親族の絆をなおざりにしたということから、部分的には正しいとされてもいるようである。」とも述べている。
 つまり、妖術師の呪いの中に、夫方居住婚によって生ずる父系的要素ヘの傾斜を糺し、この社会の基礎である母系制の危機を守るという側面があることも、ンデンブ族自身によって了解されているということであろう。イソマはこの呪いを真摯に受け止め、なだめ鎮め、母系制の大切さを再認識する儀礼でもある。


⚫イソマという社会劇の舞台空間――

 儀礼の本番に先立って、二つの草束が用意され、一つは大ネズミなどの巣穴にかけられ、もう一つはそこから約1メートル半ほど離れたところに置かれ、その下に深い穴が掘られ、その二つの穴はやがてトンネルで連結される。
 そして、二つの穴から30メートルほど離れたところに二つの火が炊かれるが、火の一つは、儀礼集団の男達が使う、動物の穴から新しい穴に向かってあり、もう一つの火は、女達が使う火であるが、この火の方が穴には近い。
 儀礼の呪医は、動物の巣穴の傍らに、母親など儀礼の仲間の女達を導き、自分達の畑から取れた芋類を埋める。芋は病人の身体の象徴である。それが、特に母系親族の女達によって調達されることが重要である。「栽培」された野菜、母系親族の女性は、この儀礼では、自然であることのカオスに対して文化のコスモスを象徴し、病人を治療する側の役目を背負っている。

 動物の隠れ穴は、その傍で火が炊かれ、「熱い穴」とされる。人間が儀礼に際して掘った新たな穴はそのままにされ、「冷たい穴」とされる。この時の「冷たい」を表す動詞名詞には「飼育すること」という意味もある。「飼育」も文化コスモスを表している。
 穴や火の周りは、樹木の枝を折ったりたわめたりして結界され、一定の儀礼空間が作られる。それは儀礼という聖なる社会劇の舞台空間の設営である。 それは、森というカオス――それは生命一般にとってはコスモスであるが――に対立する、文化というコスモスの再生の、それ故、コスモス再生産の場所である。と同時に、森と人間の日常の文化コスモスとの間に設営された、カオスとコスモスを媒介する空間でもある。

 この何かを取り囲むという行為は、ンデンブ族の儀礼に一貫したテーマだという。この、「冷たい」=「飼育」を表す語はまた、首長の住居やその薬小屋を取り巻く垣根の意味でも使われているということだから、そういった場所も儀礼の舞台化を経て作られた文化コスモスの空間なのであろう。
 また、ここではとりあえず、前述した通り、そういった儀礼の舞台が、動物の巣穴と人間が掘った穴の両方というように、単にコスモスを示すアイテムだけで埋められているのではないこと、カオスとコスモスの対置とその交差・連結として、カオスを導入することではじめて文化コスモスの更新が可能になるような場であることを確認しておこう。
 また、これについては次回、イソマの儀礼空間の構造分析で詳しく見るつもりであるが、二項対立とその止揚−綜合として、儀礼−象徴がその対立を媒介する、弁証法的装置(第3項)として働いていることにも留意しておこう。
 この視点が、第3章以降のリミナリテイとコムニタスの議論に繋がっていく。そしてそれはさらに、「場所」、「舞台」という言葉を通して、西田幾多郎の「場所論」や、他様々な演劇論などと、コムニタス論を関連付ける視点となっても行くだろう。


⚫投影同一視としての象徴――

 妖術師の呪いで登場する仮面のムヴウェンイは、イソマの病気になる女性自身とも同一視されている。病気になる女性は、既婚女性としての彼女に期待されている役割を彼女自身が積極的に放棄しているのであり、それは養育者としての女性の振る舞いではなく、男性の殺害者(狩人)=ムヴウェンイのように振る舞っているのと同じことなのだから、彼女自身が、彼女の孕んだ子も殺してしまうのだ、と観念されてもいるのである。
 「彼女たちは亡霊に投影された自分自身の一部、あるいは一側面によって苦しめられている。」とターナーは述べる。心理学に関心を持つ人の中には、それが、精神分析(対象関係学派)のメラニー・クラインの言う、〈投影同一視〉(外在化)と関係があると気付く人もいるであろう。とすると、象徴は、啓示であると同時に、同一視された投影ということにもなろう。
 
 この自己防衛規制の発生のメカニズムについてのクラインの説明と、それについての筆者の評価について詳しく述べるとかなり長くなってしまうと思うので、それはいつか回を改めてやることにして、今回はその結論的なところだけを述べておこう。

 人間は子宮という、世界と自己がイコールとなるような大いなる存在から、外界に産み捨てられた(「阿闍世コンプレックス」?)時から、自己と世界を、大いなる存在の壊れた断片としてしか捉えられなくなってしまうのである。
 人の日常は、その断片の自我として自己を捉え、外界を他者として捉えている。自我として自己を捉えるということは、自己を他者との価値比較において捉えるということでもある。価値比較において自己を捉えると、自己を他者より誇大化して捉えたり、反対に他者より矮小化して捉えたりすることが起きる。その誇大化が極端な場合、他人より劣っていると思えるような自分の感情や能力を、自分のものとして認めると自我崩壊を起こしかねないので、自我を防衛するために、それを他人に転嫁・投影し、その投影した他人を批判したり憎んだりするようになる。
 反対に、自分を卑小化し過ぎて捉えている場合、自己の中に潜在していながら、自我の中に到底しまいきれないような自己の偉大さを、他人に転嫁・投影して崇拝する傾向が生まれる。前者は他人に対する憎悪や差別や第3項排除に繋がり、後者は、教祖やカリスマや独裁者ヘの崇拝に繋がる。
 そういった心理は、心理学では無意識(無自覚)の「原始的自我防衛規制」の一つとして説明され、特に、境界例や自己愛性パーソナリティ障害、統合失調症、パラノイアなどの病的な心理として、意識化し克服すべき心理傾向として、批判的に把握される場合が多い。
 しかし、程度の差はあれ、それは「健常者」の日常の一般的な心理傾向でもあることを忘れてはならない。投影同一視に限らず、原始的防衛規制とか、防衛規制とか言われるものは全て、「健常者」も行っているものである。病的かどうかは、程度の差に過ぎない。

 ンデンブ族のイソマ儀礼の中で、それが、自分自身を苦しめる病気を作る力としても作用しているが、同時に、それ自体が、治療的な力としても作用していることを見ることができる。
 怒れる亡霊に「投影された自分自身の一部」は、一端、病気として自分自身に反影されるが、さらに、儀礼を通して、目に見える様々なアイテムの象徴を通して、なだめられ填められた亡霊に再反影されて治癒に向かう。イソマ儀礼は、このような投影同一視の合わせ鏡のような構造で成立している。
 それは、決して、イソマ儀礼の「グロテスクな」(モルガン)未開宗教性を示すものなのではなく、現代人の文化の基礎をなす「象徴界」――「想像界」(イメージの世界)がさらにその基礎をなす――の構造を示すものとしてある。
 「無我」説を主張する仏教では、自己の本来の姿を、子宮の中に居る時のような大いなる存在と捉え、他者‐個物存在を、自我の、言わば「投影同一視」(他我、オルター・エゴ)として捉えていると言えるが、いずれそのことも回を改めて述べよう(自我と他我を、一つの「大いなる存在」として感じられるようになることが「悟り」だと言われている。)。

 ホモ・デメンスとしての人間は、本能のコスモスを半分失うことで生まれたカオス=不安を、世界をカタチある個物(自我と他我もその一つ)として、つまり象徴化して捉え、それを一つ一つ名付けることを通して代替コスモスを形成し、失った自然本来のコスモスを過剰に補填し、葛藤しながら、かろうじて心の平衡を保持してきた存在であるが、投影同一視は、象徴化の働きとして、その文化形成の原点で働いている。象形文字誕生の一歩手前で。

                    前へ  次へ